九話 ハクラ・フヴキ
ただでさえ不味いヘンヴェールの肉は、灰を喰らうような感覚でとても喉を通るものではなかった。周りを見渡せば耳の色が悪いインガ以外は問題なく食べていた。
理解している。明日からの移動、そのためには食事は不可欠だ。フヴキは自分の分の肉を無理矢理飲み込むと、即座に立ち上がって捕虜から一番離れた場所に移動した。
帝国兵、その黄色の毛を纏った高身長の種族の姿はトラウマを引き起こす。
分かっているはずだ、この捕虜は自分を害することは無いのだろうと。
それでも、理性は感情を制することは無い。恐怖が体を締め上げ、正常に動けない。奴から離れなければ。その一心だけで、仮拠点の再端の影に隠れるように潜り込んで目を閉じる。
深呼吸、落ち着け、ここなら殺されない。そう自分に言い聞かせる。日没とともに灰色人の町へと向かうのだ、睡眠を取らなければ身が持たない。
仲間達からの心配した視線を感じるが、無視して強引に目を閉じた。心配の視線の中に捕虜のものも混ざっていたことは気が付かなかったことにした。
敵兵はここにはいない、だから安心して寝ろ。自己暗示で無理矢理平常を装う。
・・・
『走るよ!見つかった!』
隣から聞こえる懐かしい声。心が落ち着くような優しい強さで自分の手を握る手。それは朦朧とした意識を覚醒させる。
『…アレア姉さん…?』
間違えるわけがない。しかしそれはあり得ない。だって、姉は…。
姉は…どうなったのだろうか。これまでずっと一緒にいたではないか。輸送業者の父と彼の親友にいつもついて行って…。
父はなぜ一緒にいない?霞んだ記憶は思い出そうとしない。考えると頭が痛い。
姉は必死に手を引いて走る。周りを見渡せばそこは荒廃した市街地。見覚えがある、帝国との境界付近の商業都市ハサ、何度か来たことがある。
しかし、なぜ荒れ果てているのだろうか。違和感だろうか、デジャブだろうか。頭をよぎる知らない記憶、知らない顔、それはどれも自分が知っていることのはず。
何を忘れている?何が起きているのだろうか。体を走る拒絶反応は悪化していく。何かが壊れそうな感覚、同時にそれを知る必要に駆られた焦燥感。
なぜ、こうも苦しいのだろうか。
訳もわからず何からか逃げている。ぼんやりと、心拍数の上昇を感じる。恐怖感の匂いがする。それが自分のものであることには気付かなかった。
『ほら、フヴキ、ちゃんと着いてきて!キキルが先の安全確保をしてくれてるから、大丈夫だよ、逃げ切るから!』
引き攣った笑顔で安心させようとしてくる姉。しかし、心の中の何かが壊れる音がした気がした。
聞いたことある。この後、何かが起こる、そしてそれを思い出さなければならない。それなのに思考は何も出力しない。
キキル、その名前は何か引っかかる。彼は生き残った、ヒョウサと違って。父親と違って…。
一気に臨界点を超えたかのように、嫌な映像が再生される。父親が兵士に組み倒され、鈍い音と共に振り下ろされる兵士らの踵、拳。隣には身体中打撲の跡を残した死体、血を吐いて死んだ死体、変な角度に関節が曲がった死体。
反吐が強烈な津波のように押し寄せるが、それを押し殺す。父親を叫ぶ声は出ない。まるで自分は傍観者のように。それを見ながら震える少女の視点に閉じ込められたように。
過去の自分の動きから抜け出せない。過去の自分という名の監獄。
ただただ眺める。何か動いたら変えられるのではないだろうか、そう思っても無力だった。記憶に干渉はできない。
看守がこちらを見る。気味悪い笑顔で嬉々として武器を掲げる奴、物を見るかのように無関心に見つめてくる奴そしてその後ろで自爆魔法を展開する父親。どれも見覚えがある光景で、いくら頑張っても視界の移動は記憶通り。
魔法攻撃の光と筋繊維が切れる嫌な音は、看守の攻撃だった。しかし、それはもう遅い。父親の大量に溢れた血は、彼の最後の魔力と霊力で槍のように周囲の看守を突き刺す。
咄嗟のことに反応できなかった奴らは皆、体内への大量な異物混入で拒絶反応に苦しみ悶えて死んでいく。
当時のフヴキに恐怖を与えたその光景は、今となっては冷たい満足感を与えるものだった。
ざまあみやがれ、ゴミどもが。
涙越しに、父親の、ヒョウサの最期の一撃の成果を眺めた…。
視野がまた霞む。走っている、逃げている。手を引く姉は気づいていない。当時の自分も、気づいていない。必死に姉に伝えようとしても、伝わらない残酷さ。
過去の自分は、恐怖に侵されて移動が遅い。あまりにも遅すぎる。
置いて行って、アレア姉さん、早く逃げて!
それは届かない。ただの記憶だから。自分がどれだけ動こうとしても当時の体は言うことを聞かないのと同様に。
後ろから飛んでくる魔力弾は、容赦なく姉の下半身を引き裂いた。見つかったのだ。激痛に歪む姉の表情は、すぐに安心させようとする笑顔に変わる。
『…大丈夫?』
大丈夫な訳がない。
フヴキの服には姉の血が染み付き、熱く鉄くさい。
自分の心配をしろ。そう叫びたいのに、声は出ない。
嫌だ。
キキルが異変に気づき、駆け寄ってくる。彼の深刻な表情は現実を突きつけた。アレアは、姉は死ぬ。父のように、侵略者の所為で。
姉は優しく微笑み、消えかかりそうな声で言う。
行きなさいと。
嫌だ。
姉から離れることを拒んだフヴキの腹部に強い衝撃が走り、反射的に離してしまう。初めて姉に殴られた記憶は、嫌なほど鮮明に残っていた。
姉がキキルに何かを言ったとき、暗い表情の彼はフヴキを抱き上げて全速力で駆けた。耳元では何度も同じ言葉が聞こえてくる。
ごめん、ごめん、ごめん、と。
最後の結界が壊れたかのように、地獄のような記憶は完成された。
キキルも数日後には消える。時間稼ぎの為の、帝国小隊相手の絶望的な鬼ごっこで。彼の最期はわからない。それでよかったのかもしれない。
捨てられた忌み子である白銀の幼女を受け入れてくれた家族の無念を晴らす権利が残ったのだから。
また視界が変わる。帝国兵に囲まれている。記憶では無い、自分の体は自在に動く。それでも、武器が無い自分は反撃はできない。包囲は絞られていく。
周りには、今の仲間たちの死体がある。
憎い。このカス共がいなければ平穏に暮らせたのに。
失わなかったのに。
タダで死んで堪るか、できるだけ道連れしてくれる。
・・・
『…フ…おき…。』
『フヴキ、起きろ。』
一気に体を強張らせて跳ね起きると、誰かに思いっきり激突した。気がつけば自分の息は荒く、震えていた。
『…大丈夫か?』
先ほど激突した場所を押さえながら尋ねてくる高身長の青年が一瞬、夢の中の帝国兵と重なる。
目を閉じて深呼吸で落ち着かせ、改めて見ると幻覚は消え、シウヤが立っていた。普段から煽りあっているときの彼の姿は無く、純粋に心配そうだった。
出血で真っ赤に染まっていない彼の姿で心は落ち着いていく。悪夢の中の彼の、みんなの血に塗れた姿が未だ鮮明に浮かぶ。
『サキラとインガが次の番だが、呼んできた方がいいか?あとお前は番をしなくてもいい。』
頷く。
寝るのが怖い。みんながいることを確認したい。テントの方を凝視するフヴキは、インガとサキラが確認できるまでその目線を外すことは無かった。
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