7.頷いて
翌日の昼過ぎ、しっかりと酒が抜けたところで、和泉はミチ先輩の運転のもと、三年ぶりに故郷の町へと足を踏み入れていた。
幸運にも天候には恵まれて、春らしい穏やかな青い空には雲ひとつ浮かんでいない。桜の花がちらほらと咲いた並木道を抜けると、見慣れた街並みが見えてきた。見ない間に知らない店も増えたらしいが、記憶通りの場所もまだまだ多い。見ていると高校時代を思い出し、ぐっと息が詰まるような気分になった。
「和泉んち、どこ?」
「さっき通り過ぎました」
「言えよ」
「嫌ですよ。知り合いがいたら気まずいじゃないですか。勘当されてるんですよ、俺」
ひとりだったらまともに動くこともできなかったかもしれない。いつも通りの軽口を叩いてくれるミチ先輩の存在が、いつも以上にありがたく思える。
ぐだぐだとミチ先輩に故郷の案内をしながら、和泉はスマホの地図で名雲の実家らしき喫茶店跡地の位置を確認する。
ミチ先輩の記憶がたしかなら、潰れた喫茶店の名前は喫茶ラピスラズリというらしい。仮にもこの街に二十年住んでいた和泉が知らないくらいだから、よほど小さな店だったか、開店してすぐに潰れたのだろう。古いブログに店構えの写真と住所が残されていたことだけが幸いだ。
「お店の評判、かなり悪かったみたいですね。店主が煙草を吸っているだの、料理の提供が遅いだの、散々な評価が書かれてます」
「まあ、評判が良かったら潰れてないだろうな。つーか、ここ、さっきも通ったよな?」
「すみません。この近くなのは間違いないんですけど、道が入り組んでて」
名雲の親が営んでいた喫茶ラピスラズリの営業形態については知る由もないが、少なくとも店の場所も経営不振の原因のひとつであることは間違いなさそうだ。地図に従って進めば進むほど、道は細く入り組んでいく。
ようやく辿り着いた時には、ほどほどに高かったはずの日はすっかり傾きかけていた。
「隠れ家カフェにもほどがあるだろ」
ぼやきながら細路地の隅に車を停めて、シャッターの降りた建物をミチ先輩とふたりで見上げる。
細路地の奥にひっそりと佇んでいるのは、とても飲食店だったとは思えない古びた家屋だ。売物件と書かれた看板は、少なく見積もってもここに立てられてから数年は経っているように見える。
「呼び鈴は……壊れてるか。人住んでんのかな、ここ?」
「二階は住居っぽく見えますけど……」
放置されている物件にしてはきれいだし、少なくとも廃墟というわけではなさそうだ。それに、何やら何かが腐ったようなきつい匂いも中からする。
ダメ元で扉に手を掛ける。開くことは期待していなかったけれど、予想に反してドアハンドルはあっさりと下がった。
ミチ先輩と顔を見合わせ、同時に頷く。
迷いは一瞬。恐る恐る扉を開いた瞬間、つんと鼻を刺した異臭に、ふたりは同時に顔を顰めた。
「……おい和泉。これ、やばくね?」
尿臭と腐敗臭を煮詰めたような、嗅いだこともないような強烈な悪臭。吐き気を催すような匂いは、明らかに普通の匂いではない。
「すみません! 誰かいますか――ッ⁉︎」
鼻を押さえつつ呼びかけてみたそのとき、二階からガタリと何かを転がすような音がした。
椅子か何かを蹴飛ばすような、けたたましい音。ついで、呻き声とともに柱が軋むようなおかしな音が何度も続く。
人がいる。
とてつもなく嫌な予感がして、和泉は勢い任せに建物の中に飛び込んでいく。
「あっ、おい、和泉!」
ミチ先輩が制止する声が聞こえたが、返事をする余裕はなかった。キッチンと思わしき場所にあった包丁を道中で掴み、和泉は一息に階段を駆け上がる。
扉の開いた部屋に飛び込むと、そこには首を吊ったひとりの男がいた。
何日も風呂に入っていないのか、髪は張り付き、無精髭の伸びたひどい風体をしていたが、見覚えのある顔だけ。
「名雲さん……っ!」
縄が軋むような音だとは思ったけれど、当たって欲しくなかった予感が当たってしまった。
慌てて名雲の腰を掴み、窒息しないようにと持ち上げる。抵抗するように名雲が足をばたつかせたが、構ってなどいられなかった。
「先輩! ミチ先輩! 来てください! 助けて!」
階下に向けて大声で怒鳴る。返事はすぐに返ってきた。
「もう来てる!」
部屋に飛び込むなり、ミチ先輩は怯んだようにダミ声を漏らす。
「うおっ! 死んでる⁉︎ 何やってんだ名雲さん!」
「縁起でもないこと言わないでください! まだ生きてます。早く縄を切ってください! そこに包丁持ってきてあるんで!」
「さすが和泉。……そのまま支えてろ! 落とすなよ!」
椅子の上に立ったミチ先輩は、和泉が道中で持ってきた包丁を使って手際よく縄を切っていく。縄が切れた途端にがくりとのしかかってきた名雲の体重を、和泉はよろけながらもしっかりと両腕で受け止めた。
泡を吹いている名雲を床に横たえ、とにかく心配蘇生をしなければと思ったところで、ゲホゲホと激しく名雲が咳き込み始めた。首を吊った直後だったからか、どうやらまだ呼吸が止まりきっていなかったらしい。
ほっと息をつきながら、和泉は名雲の息が整うのを待った。隣ではミチ先輩が救急車を呼んでいる。
「だ、れだ」
嗄れたひどい声が下から聞こえた。たった今死のうとしたとは思えない、鋭い視線が和泉を貫く。
「余計なことを……っ」
恨みと憎しみを煮込んで固めたような暗い瞳に、奇妙な懐かしさを感じた。今でこそ死にたくなることはほぼなくなったけれど、和泉だってかつては身投げして死のうとした人間だ。名雲の事情は分からなくても、死にたいという気持ちは察せられるものがあった。
「首吊りって、苦しくないですか」
「……は?」
ミチ先輩が通話を終える。
名雲の口元から垂れる涎をティッシュで拭ってやりながら、和泉は薄く微笑んだ。
「溺死とどっちが苦しいんでしょうね。どうせ死ぬなら凍死がいいって、前に聞いた気がしましたけど……。気のせいだったかな」
「君、まさか」
何かに気づいたように、名雲が弱々しく身じろぎをした。
「和泉くん……?」
名前を呼ばれた瞬間、言いようもなく胸が苦しくなった。
覚えていてくれたことが嬉しい。けれどそれ以上に、この薄汚れた男があの時会った名雲本人だという事実が悲しい。数年前、和泉を救ってくれた名雲は、強くもなければ自由でもなく、ともすれば和泉以上に苦しんでいた弱い人なのだと、嫌でも分かってしまうから。
「……どうせ死ぬなら、もう一回俺と寝てくださいよ、名雲さん。後腐れのない人、好きなんです」
とてもそんな気分ではなかったけれど、どうにかして名雲の気を変えさせようと思ったら、そんな言葉しか出てこなかった。三年前、痩せ細った和泉に一発ヤらせろと声を掛けてきた名雲も、こんな気分だったのだろうか。
「死ぬんだったらいいでしょう? 思ってたよりずっと、俺たち似たもの同士だったみたいですし」
「……何、言ってるんだ……?」
ぎこちなく名雲が口元を歪める。おかしくもないのに、緊張すればするほど、体に染みついた笑みが勝手に滲んでしまうのだろう。和泉自身にも覚えがあるだけに、余計にそれが痛々しく思えた。
「頷いてください」
うつろな目をした名雲の耳元へ唇を寄せて、和泉は言い聞かせるように囁いた。
「頷いて。もう何も考えなくていいから。頷いてくれたら、今度は俺があなたを助けてあげる」
かつての名雲の真似をするなら、殺してあげると言うべきだったのかもしれない。けれど、死の匂いが纏わりついた家の中で、自分で自分を殺そうとするまで追い詰められた人を前に、嘘でも殺してあげるなんて言う気にはなれなかった。
かくりと力なく名雲が項垂れる。それを同意と取ることにした和泉は、すえた匂いを放つ名雲の体を、しっかりと両腕で抱き直した。
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