掌の物語

瀬戸川清華

琥珀の記憶

 埃っぽい骨董店で、それは見つけた。 手のひらに収まるほどの琥珀。中に小さな虫が閉じ込められている。数十万年の時が、結晶の中に息づいているようだった。 店の主は薄暗い電球の下で、

「それは、持ち主の記憶を吸い取る、と昔から言われている、曰く付きの品だよ」

と笑った。


 その夜、枕元に琥珀を置いた。 翌朝、奇妙な出来事が起こった。 昨日の晩ごはんのメニューが思い出せない。 通勤路の途中にある喫茶店の名前が、どうしても出てこない。 最初は歳のせいかと思った。だが、数日経つうち、状況は加速した。


 幼い頃の誕生日プレゼント。初めて飼った猫の名前。好きだった歌手のデビュー曲。 まるで透明な壁の向こうに隠れていくように、大切な記憶が次々と失われていった。 焦燥した。これは琥珀のせいだ。あの店主の言葉が頭をよぎる。


 ある朝、鏡を見た。そこに映る自分は、確かに知っている顔。 しかし、その顔が誰で、なぜここにいるのかが、分からなかった。 唯一覚えているのは、「琥珀」という言葉。 そして、手のひらに握りしめられた、透明な輝き。


 彼は琥珀をじっと見つめた。中に閉じ込められた虫が、まるで自由を求めているかのように蠢いて見えた。 その時、かすかに声が聞こえた。「…お父さん…?」 振り返ると、誰かが立っていた。女性だった。 彼女の顔も、誰かも、一切思い出せない。何もかもが喪失していた。


 それでも、琥珀を握りしめるこの手だけは、温かかった。 そして、その温もりだけが、彼が何者であるかを、かろうじて繋ぎ止める、唯一の記憶だった。

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