第2話 プロローグ 六月 ⑵
せっかくいい気分だったのに。重くなった足取りで路地を曲がると、貴史は再びいつもとは違う場面に出くわしてしまった。通い慣れた帰り道の途中、けたたましい自転車のブレーキ音に顔を上げる。
「あっぶねぇな!」
雨音とは違う、大きな水音とボーイソプラノが聞こえた先、十歳くらいの少女が雑草だらけの空き地に倒れていた。さすがに目の前で倒れている子供を見捨てたりできない。上体だけ起こした少女の手を取り立ち上がるのを助ける。梅雨の恵みを受け止め茂った雑草がクッションになったのだろう。少女に目立った怪我はないようだ。確認してから貴史は少女の傘や鞄を拾った。放り出された傘は一つだけ骨が折れてしまい、かわいい水玉の柄がそこからぺこりとお辞儀をしてしまっている。なぜか申し訳ない気持ちになって、折れてしまった部分が少女の目に入らぬ方向にして渡す。
「立てる?」
しかし少女は貴史をまるっきり無視して肩から斜めに掛けた赤いポシェットを押さえ、辺りの草むらや道路を必死に見回していた。ハンカチでも探しているのだろうか。首を傾げて少女を見守り、声を掛ける。
「大丈夫? 怪我はない?」
返事がないので仕方なく、少女の傍らへしゃがんでハーフパンツから伸びた足をデイパックの横ポケットから取り出したハンドタオルで拭いてやる。他に濡れたり怪我をしたりしているところはないか、と仰いだ少女は雨粒よりも大きな雫を目から零して拳を握っていた。
「あ、え……? どうしたの? どこか痛いの?」
「あうう、うわああああん――!」
重ねて貴史が問うと、少女は堰を切ったように拳を目頭へ当てて泣き出す。相手が小学生だろうが、貴史には女の子に泣かれた経験などない。五つ上と二つ上の姉がいるが、怒られたりからかわれたりしたことはあってもこんな風に身も世もなく泣かれたことなどない。どう対処して良いのか分からず、おろおろしながら少女の涙を拭い、慰めた。
「どうしたのかな? 泣かなくていいよ、大丈夫」
しばらく大声を上げて泣いた後、落ち着いて来たのか少女は嗚咽の間に貴史へぽつり、ぽつりと説明をする。貴史は根気よく、少女の話へ耳を傾けた。
「おがっ、おかあさんのたんじょう日……、プレゼント買うお金、おとしちゃったぁ……!」
「ええっ! 大変じゃない! さっき、自転車とぶつかった時に落としたの?」
貴史の問いに、少女はしゃくり上げながら何度も頷く。目を押さえた少女の拳に、泥が付いていた。よく見れば、顔にも細かな擦り傷がある。けれど怪我をしたことよりも、プレゼントを買うお金を落としたことの方がショックなのだろう。
かわいい絵柄のプリントされたTシャツの肩が濡れて色が変わっていく。しゃくり上げるたびに跳ねる肩が不憫だ。
「分かった、ちょっと待ってて」
顔を上げられず、こくこくと頷く少女のへ自分の傘を預けて立ち上がる。足下にある側溝の蓋は鉄の網になっていて、貴史でも退けられそうだ。この網の間から中へ落ちたのかもしれない。濡れるのも構わず蓋へ手を掛けた。砂で隙間が埋まっていて、結構重い。
「ん……ぐぅ……!」
踏ん張って蓋を外し、側溝の中を覗く。U字溝へ手を突っ込んで、泥水の中を必死で掻き回して指を広げた。雨量が多いせいで流れが速く、小銭をいくつか引き上げられたが全部というわけには行かなかったようだ。手元に残った硬貨を見下ろし、少女が唇を噛む。
「足らない、んだよね……?」
「……ううん……」
本当は足らないのだろう。無理に笑みを作った少女に、貴史はできるだけのことをしてあげたいと思った。
「あの先の所、開けてみよう? ね、もうちょっと待ってて」
言うが早いか雨水が流れ着く先、曲がり角の部分に硬貨が引っかかっていることを祈り、地面へ這い蹲る。少し遅れて少女が貴史を追いかけて来て、預けた貴史の傘を差してくれた。重いコンクリートの蓋は見るからに重量感があり到底、貴史一人で持ち上げられそうに見えない。
コンクリート蓋にある手掛け穴に指を入れ、足に力を入れて持ち上げる。側溝の蓋は、持ち上げるために専用の機械があるくらいなので当たり前と言えば当たり前だが、貴史の手で簡単に外せるものではない。何度か繰り返しているうちに蓋と連結部分の間へ隙間ができた。自分でも情けないが、筋肉らしい筋肉の一切ない貴史の手なら何とか入りそうだ。
「うぅ~……」
自分の手が抜けなくなったら、などと一瞬考えもしたが、無理矢理に手を掛け穴へ指先をねじ込み、手首まで入れる。もう少し。あと少し。ようよう肘まで隙間に差し入れ、流れの渦巻く泥水を掻き回す。コンクリートに皮膚が擦れて、うっすら血が滲んでも唇を噛んで手探りを続けた。
「んー……あ、あったぁ……!」
大きな硬貨の手触りに叫び、傷だらけの手を引き抜く。少女は嬉しそうな顔で貴史の手を覗き込んだが、やはり落としたお金全てが回収できたわけではなさそうだった。
「……ふ……っく……うぇ……っ」
堪えきれずに嗚咽が響く。泣き出した少女を置き去りにできるほど、貴史は強くない。
「……ごめんね」
貴史の謝罪をきっかけに、少女は再び大声を上げて泣き出した。しゃがんで視線を合わせながらハンドタオルで少女の涙を拭く。少女が落ち着くまで、急かすことをせず何度も何度も。
両手を当てて、空から降り注ぐ雨粒よりも大きな雫を必死で拭うが、涙は一向に収まる気配がない。落っこちそうに肩へ乗せられた少女の傘を取り、貴史は自然と優しい声音で呟く。
「風邪引いちゃうよ、おうちの近くまで送ってあげるから」
「……ん」
諦めを含んだ少女のレインブーツが水たまりへ踏み出す。雨水を吸ったからだけではない重い足取りに胸が痛む。例えば、貴史の小遣いから少女がプレゼントを買うのに足りるお金を出してもいい。それで済むのならば簡単だ。けれどそういう問題ではない。それはしていけないことだと分かっていた。だから貴史にできることはない。罪悪感に苛まれながら、少女と並んで細かな雨のカーテンを何度も何度もくぐり続ける。
「ごめんね……」
「んーん……」
それでも止まない嗚咽に、貴史は必死で話題を探る。
「おうちは本通りの方でいいかな? ……ごめんね、あまり役に立たなくて……」
貴史が謝ると、少女は大きな目をさらに丸くして首を傾げた。さらりと流れたショートボブの髪が、目の端で揺れる。
「どうしてあやまるの? お兄ちゃんは、親切にしてくれたよ?」
少女の素直な問いに貴史は胸を突かれた。真っ直ぐ見つめる少女の目に、かつてのクラスメイトたちが見せた異物を見る色はない。
透明な瞳にこのコンプレックスで凝り固まった心をなんと説明すればよいのだろうと考え、はたと気づいた。素直な目には、正直に返せばいいのではないか。俯くばかりで、傘の外へ追いやるだけで、それでこの先も諦め続けるのか。
失敗してもしたいようにしたのだから、その行動を悔やんでも仕方ない。大事なのは行動せずに後悔することではないだろうか。行動に成功を求める必要はない。
「……そうだね。ぼくは、ぼくがしたいようにしただけだ」
その結果が失敗だろうと、成功だろうと、大切なことは自分自身が納得しているかどうかだろう。少女を放っておけなかった。だから少女が落としたお金を探した。全て探せたわけではないが彼女は「ありがとう」と言ってくれたのだから、それで十分だ。そう思えた。
「ありがとう」
きょとんと目を見張った少女は、いつの間にか泣き止んでいる。少女と呼応するように雨足が弱まった。少女は自分で傘の柄を掴んで貴史を仰ぐ。
「どうしてお兄ちゃんがありがとするの? ヘンなの。あ、ここ。ここがうちよ」
少女が指し示した真新しい一軒家は庭も綺麗に手入れされており、まるでモデルハウスのようだ。その完璧なほどに隙のない風情はどこか見覚えがある。何気なく表札を見てよく知るクラスメイトの姿を思い浮かべた。貴史は首を横へ振る。
まさか。説田はこの辺りでは珍しい名字ではない。少女は襟元から組紐に繋がった鍵を取り出し、玄関の錠を開けた。
「きみ、一人でお留守番なの?」
「ううん。お兄ちゃんがもうすぐ帰ってくると思う」
黒目がちの涙袋が目立つ瞳は、貴史が苦手なクラスメイトにどこか似ている。ああそうか。彼の容姿はきっと、女性的なのだ。女性ならば愛らしい顔立ちだろう。それが少年になれば不思議と、複雑な魅力を醸し出す。少女のお兄ちゃん、という言葉に疑惑が確信へと近づき、貴史は何だか尻がむず痒いような落ち着かない気分になる。体を揺らして玄関の前で立ち尽くす貴史へ、さらに少女は中へ入るように促した。
「お兄ちゃん、どうぞ。タオル持ってくるね、上がって」
「あ、いいよここで。タオルだけ貸してもらえれば……」
「でも、おカゼひいちゃう」
貴史は遠慮がちに答えるが、少女はさらに困った様子で戸惑っている。しかし小学生に招かれて保護者のいない家に上がるのは、さすがに非常識だろうと思った。
「タオル、もってくるね! まっててね!」
「あ! いやぼくもう帰るよ……!」
貴史の静止を聞かず、玄関の扉を開けっ放しにしてさっさと家へ上がった少女を追いかけることもできず、三和土で立ち尽くす。タオルを借りたら帰ろう、と心の中で反芻して拳を胸で握り、頷いた貴史の肩が後ろから叩かれた。
「あれ、佐合?」
「ほぇ? あ、説田……」
やっぱり、という気持ちが顔と声に出てしまった。理不尽であからさまな落胆のつぶてを受けて十八は少し眉を寄せた。
「あ、とお兄! おかえり」
大きなバスタオルを手に上がり框へ立つ少女と貴史を交互に見て、十八は首を捻る。大きな体のかわいい仕草がおかしくて貴史は思わず噴き出してしまった。落胆と笑いを続けてぶつけられた十八は、疑問符が隠せない様子で続けざまに問いを放つ。
「何で佐合がここに?
なるほど、やはり並べばこの兄妹は顔立ちがよく似ている。ただ、少女となれば愛らしい黒目がちな瞳もきりりと涼しく切れ上がると男らしく見えるのだ。それでいて女性的な顔立ちがこのクラスメイトの不思議な穏やかさをより強調している。愛らしい瞳をくるりと動かし、少女が答えた。
「あのね、お兄ちゃんがここなの落としたお金、さがしてくれたの」
「あ、でもぼく、全然役に立たなくて」
似合わぬお節介に呼び寄せられたように現れた苦手なクラスメイト。貴史はこの場から逃げ出したくて堪らなくなった。普段からの挙動不審がさらに挙動不審になって視線を泳がせる。
「それでお前、そんなにずぶ濡れなの? 風邪引くぞ。あ~あ、肘んとこ擦りむいてんじゃんか。
貴史を頭のてっぺんから爪先まで見つめ、十八は九七へ手を差し出す。九七は首を傾げながら、十八の手へタオルを載せた。
「いや、濡れちゃったり擦りむいたのはぼくの要領が悪いからで……っくしゅ」
「ほらみろ。
十八は貴史の頭にタオルを載せ、力任せに手を動かす。十八の手の動きに釣られ、貴史の細い体は前後左右に揺さぶられて、足を踏ん張る以外に選択肢がない。
「い、いいよ、説田……ほんとにタオルだけ借りたら、帰るから」
というか帰りたい。今すぐに。リア充の代表みたいな説田へ口にできる話題など、何度と繰り返した問いかけ以外に持ち合わせていないのだから。逃げ出したさに挙動不審な貴史の退路を塞ぐように十八が玄関扉を閉じた。
「いいわけあるか」
有無を言わさぬ十八の手が貴史の両脇に入り込んだ。軽々と体を持ち上げられる。水分を吸ったローファーはタイルの三和土に残ったまま、貴史の足から離れて行く。あっという間に上がり框へ乗せられ、貴史は目を瞬いた。
「お前、ちゃんとメシ食ってるか? 佐合。軽すぎてビビったぞ」
「た、たべ、食べてるよ……」
子供へ言い聞かせるみたいな十八の口調に、貴史は赤くなって上目遣いで反論する。みるみる熱が上がっていく顔を隠すため、頭にかぶせられたタオルを手繰り、口元を隠す。タオルから、貴史の家とは違う柔軟剤の香りがする。なぜだかそんなどうでもいいことに妙に胸がざわめいた。
貴史と十八の体格差は一目瞭然といえど、軽々抱えられるほどとは。悔しいのとも、ただ恥ずかしいだけとも違う気持ちに貴史の鼓動は耳元で激しく脈を打つ。濡れた前髪が額に張り付き睫毛へ水滴が落ちてきて、瞬きで弾かれて頬へ流れた。
夏服のカッターシャツも肌へ張り付くほど濡れていて、貴史を抱えた時に濡れたのだろう、十八の腕を流れ落ちる水滴が目に入る。制服だけではなく靴下もかなりの水分を含んでいて上がり框の板材へみるみるシミが広がっていく。気付いて貴史はそうしてどうなるわけでもないのにできるだけ身を縮めた。
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