炭酸水の恋
吉川 箱
第1話 プロローグ 六月 ⑴
とおや、っていうんだ。じゅうはちってかくんだよ。わかる? じゅう、はち。
そう言って
それは貴史へ不躾に向けられる好奇心の色など纏っていなかった。だからだろう。同じように、好奇心の色を含まない彼の瞳が気になるのは。
「いや意味わかんねぇしっつってよぉ」
わっ、と上がった大きな笑い声に振り向く。窓際の席で男子生徒が数人集まって大声で談笑している。話の輪の中心にいるのが明るくて人懐こいクラスメイトの加藤。その横で控え目に相づちを打つ長身を視界の端に収め、貴史は静かに顔を戻した。
でもやっぱり、炭酸も説田も苦手だな。
ぼんやりと考えながら紅茶飲料の紙パックに挿されたストローから唇を離す。紙パックからストローを引き抜き丁寧に潰してコンビニエンスストアのビニール袋へ入れる。
彼は炭酸水だ。喉を刺す刺激。けれど夏の暑い日に差し出されたのなら、誰もが受け取らずにはいられない。独特のくせがあっても、生まれつき愛されるタイプの人間。
貴史は違う。無難で刺激などなく、好んで望む人は少ないが無害なタイプ。そう、まるで今まさに貴史が口にしていた紅茶みたいに一般的で、平均的で、特にこれといった特徴も刺激もない。
再び湧き上がった笑い声に振り返ると、口角を上向きに撓らせて腕を組む姿が目路に入る。口数が多いわけではない。声が大きいわけでも、進んで目立ちたがるわけでもない。
それでも彼は人の輪の中にいる。不思議な穏やかさと、独特の距離感を持って。
とびきりのイケメンではない。しかし印象に残る切れ長で黒目がちの涼やかな瞳は、静かで思慮深い知性を讃えている。濃すぎず薄すぎず、程よく整った顔立ちは一言で表すのならば「好まれる」風貌をしている。ふっくらと涙袋の目立つどこか女性的な容姿は端正過ぎて近寄りがたい印象はなく、短く切り揃えた髪と日に焼けた肌のお陰で闊達に見える。その日焼けすら過分なく適度で、これが計算ずくなら恐ろしいほどだ。
文武両道を地で行き、運動をさせれば平均値以上の結果を出してもひけらかすことはしない。先輩同士のケンカを諫めたなどの噂もあり、特に勉強をしている風でもないのに成績は常に上位である。
あらゆる意味で平均値の少し上。聡明でほんの僅かに他のクラスメイトより先に少年期を脱した、青年でも少年でもない独特の曖昧な魅力。女の子は飛びぬけたイケメンより、このちょうど良さを好むのだろうと貴史は思う。
始業のベルと共に散っていくクラスメイト同様に、彼も自分の席へと戻って来る。その横顔を悟られぬよう盗み見て、貴史はビニール袋の口を縛った。彼と自分の何が違うのだろう。ぼんやりとそんなことを考えていると、ふいに机の上へ影ができ、バリトンボイスが降ってくる。
「よ、佐合」
「へっ? ああ、うん……。おはよ、説田くん」
「おう、おはよ」
小さな声で返事をした貴史の顔を覗き込み涙袋の下へ皺を寄せ、自席へ座った広い背中を窺った。彼――、
貴史は大人しい質で口数も少なく、人付き合いも下手だ。
否。貴史は多分、間違って人間に生まれて来たのだと思う。みんなが当たり前にできることが、貴史には酷く難しい。今、この教室で息をすることすら貴史には精いっぱいなのだ。
学年が上がり、二年になって初めて同じクラスになったクラスメイト。その鳶茶色の瞳へ貴史はこの三か月、たった一言が聞けずにいる。
きみ、小さい頃ぼくと会ったことないかな? ぼくに名前を教えてくれたよね?
たった、それだけなのに。
ふう、と小さくため息をついて右から左へ、ゆっくりと顔を動かし教室を見渡す。夏服の白が目に眩しい。カーテンを閉めた室内はどこか薄く青味がかっていて、四角い教室はまるで水槽のようだ。その中を笑ったり怒ったり動き回るクラスメイトはさながら魚だ。生き生きと泳ぎ回る彼らと対照的に、貴史は呼吸すらままならず常にぼんやりと浮かんでいる溺れかけの無様な魚。
「ヘンなの。うちのじーちゃんみたいにシラガだ」
母がフランス人で、生まれつき白に近い金の髪も、青白く血管の透ける肌も、ブルーグレーとイエローが混じる瞳もクラスメイトたちにとっては異質だったのだろう。
「シラガだ、シラガだ」
「目の色もヘン」
「ガラスみたい。キモイ」
「キモイ。ヘン」
父は仕事の赴任先で母と出会い、貴史が小学校へ入学するまではフランスで暮らしていた。だから日本に帰国したばかりの頃は日本語が話せなかった。クラスメイトたちに早口で捲し立てられても、何一つ言い返せなかったし、意味もよく分からなかった。
ただ、何か悪口を言われていることと、いやらしいニヤニヤ笑いだけを今でもよく覚えている。
日本語に慣れて来た頃にようやく自分が何を言われているか知った。その頃には、貴史は何を言っても意味が分かっていない、何を言ってもいいと思われたのかクラスメイトのからかいは酷いものになっていた。だから口を閉じた。意味が分からなければ、答える必要はない。
子供の好奇心は無邪気で残酷だ。
貴史は今でも、クラスメイトを正面から見つめることはできない。授業で当てられれば答えないわけにも行かず、必要最低限の会話ができることはクラスメイトたちにも分かっているのだろう。それでも貴史は極力誰とも目を合わせずに学校生活を送って来た。
貴史にとって世界は目まぐるしく、色彩や音に溢れていてどこを見たらいいのか分からなくなる。情報が過多で貴史が目を回しているうちに、置いてけぼりになっている。そうして気を取られている間に、クラスメイトたちはすでに遠く先へ進んでいる。ひょろひょろと手足ばかりが伸びた今でもそれは変わらない。呼吸することで手一杯の貴史は自分から話しかけることもできない。せっかく話しかけられても満足に返事もできない。
そんな貴史にとって人当たりがよく誰とでも気さくに話ができる十八は十分に人気者という印象だった。実際その通りだと思う。しかし十八は自らが輪の中心になることを上手に避けている気がする。本人が望んでそうしているような雰囲気がしてならなかった。
十八は席が前後だからか、貴史へも声をかけてくる。彼は誰に対してもそんな態度で上級生にも知り合いがいるというのは納得だ。そんな風に社交的なくせに、不思議と誰とも打ち解けていない印象がある。
どこか周りと一定の距離を置いている。常に俯瞰で物事を見ている。その冷静さすら周りへ悟らせないよう、慎重に泳ぐ彼は時々、この教室という水槽と一体化して気配を消そうとしている気がする。
しかしまた、それすら彼は器用に隠してしまうのだ。それが貴史には不思議でならない。
――ねぇ。きみ、小さい頃ぼくと会ったことないかな?
もし彼があの時の男の子なのであれば、何らかの反応があってもいいのではないか。だから貴史は、その一言が言い出せない。言い出せなくて俯く貴史に、彼は屈託なく話しかけてくる。本当は覚えているのではないかと胸の辺りがむず痒くなる。
ねぇ、きみ。ぼくと小さい頃に会ったこと、ないかな?
その一言さえ口にできない貴史は、家族以外の人間と口を聞かない。十八はそんな貴史が、高校二年生にして初めて毎日挨拶を交わすクラスメイトだ。
話し相手がいない一日というのは退屈で長い。退屈だが変化もない、平穏な日常を貴史は良しとしていた。穏やかで平坦な日々はいい。そこに割く労力は少なくていいし、心乱されることもない。進級して以来繰り返して来た日常に貴史は溜息を吐いて立ち上がった。少し離れたところからコンビニエンスストアのビニール袋を投げつけると、四角く重みのある紙パックは角が当たってゴミ箱の外へ落ちる。
肩を竦め、ビニール袋を拾って今度こそ投入口の真上で手を離す。貴史の毎日は常にこんなものだ。何事も起こらない代わり、劇的な展開も待ち受けていない。けれどきっと人生なんてそんなものだろうと思う。
本当は。
本当はぼく、君のこと知ってるんだ。
貴史はあの日、まだ帰国したばかりで。あの男の子に日本語では一言も返事をしていない。だからもし、彼があの男の子だったとしても貴史に気づかないのは当たり前だ。けれど貴史の胸には何とも言い難く飲み込めない感情がずっと居座ったままなのだ。それはいじけて拗ねて、貴史の心の片隅でいつまでもしゅわしゅわと泡を燻らせ膝を抱えて蹲っている。
自分から出会った時のことを切り出せず、日常をすり減らしている貴史にとって十八への気持ちは妬みと憧れの混じったもので、それ以上もそれ以下もない。一方的な逆恨みにも似た何ら正当性のない感情である。そんなことは分かっているのだ。
席へ戻り窓の外を見遣る。ほんの少し前までからりと晴れていた空には、いつの間にかどんより暗い雲が低く垂れ込めていた。
あのぽってり膨れた雲の腹を指で少しつついたら、たっぷりと抱き込まれた雨が耐えきれずに零れるだろう。灰色の空から雨粒が降り注ぐ様を想像してほんの少し楽しい気分で目を閉じた。大丈夫。置き傘もあるし、折りたたみ傘も持ってきている。
貴史の僅かな精神力は平坦な今日という馴染んだ退屈を、どうにかやり過ごすことに費やされている。今日という日もいつも通りに終えることが、貴史のできる唯一のことだ。放課後、帰り支度を済ませてのんびりと置き傘を開いた貴史は、雨が叩き付けるグラウンドへと足を踏み出した。
賑やかに生徒のお喋りが渦巻く校舎の外、それぞれ家路や寄り道へと散らばる会話の中を進む。
降りしきり、水たまりになる生徒たちの中へ足を踏み入れる。周りの幾人かは貴史へ視線を向けるが、いつものことだ。小学生以来嫌になるほど繰り返された、異物を見る目。それは貴史にとって、この蕭々と降る雨と変わらない。傘を開けば、それらは貴史の世界の外へ弾かれる。
大丈夫。だから大丈夫。
自分へ言い聞かせて雨粒と視線が散らばる地面から意識を逸らせる。雨水を吸い込んで色を変えていくグラウンドから、雨を弾いて小さな水たまりを作るアスファルトへつま先を下ろす。大抵の人間は雨を嫌うだろうが、貴史は雨降りの日が好きだ。
雨音は周りの世界と貴史を遮断してくれるし、ゆったり葉っぱの上を行くカタツムリや雨宿りで葉っぱの下、じっとしているカエルを観察するのも嫌いじゃない。この時期、雨粒を載せた紫陽花は綺麗だし、広げた傘は他人の顔を見ずに済む。
「あ、あの、佐合くん」
なのに時々、こうして無遠慮な視線だけでは済まずに声までかけてくる。振り返り渋々傘のバリアを少しだけ持ち上げた。見覚えがあるその女生徒の名前までは思い出せない。
「……はい」
「あ、あの、……好きです。付き合ってください!」
「……え」
心底驚く。記憶の底を浚って彼女の名前を思い出そうとする。顔は思い出せるが、名前までは思い出せない。混乱のまま疑問を口にする。
「あの、君ぼくと同じ小学校だよね? ぼくの髪や目を気持ち悪いって、言ってたと思うけど」
「――っ、そんなの、昔のことじゃない……!」
何故彼女が怒るのか。さらに混乱して指で額を押さえた。
「あの、でもぼく、あの頃と髪の色も目の色も変わってないよ?」
一体あの頃と何が違うというのか。何故ほんの数年前に気持ち悪いと思っていたものを好きになったりできるのか。理解できずに貴史の思考は混迷を極めた。
「もういいわよ! 何よ! ちょっと顔がいいからって性格悪い!」
「……え……」
どうして彼女が怒るのか。何故、貴史が怒られたのか。貴史の顔がどうしたというのか。本当に意味が分からない。戸惑い俯いた貴史のつま先に、蕭々と雨が降り注ぐ。
分からない。傷つけられたのは貴史なのに。なぜ彼女は憤慨したのか。これではまるで貴史が彼女を傷つけたようではないか。
「……理不尽」
分からないことはいつまで考えていても仕方ない。雨だれは優しい。気にしないで、と貴史へ囁く。その声に励まされるようにして一歩踏み出す。
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