第3話 アトラスの天秤
絶対的な静寂。
それが、高槻涼の意識が混沌の淵から浮上して最初に知覚した、世界の全てだった。
先ほどまで、耳を劈くような轟音と、鋼鉄の巨人が崩れ落ちる地響き、そして自らの心臓が肋骨を内側から叩き割るのではないかと思うほどの激しい鼓動が、彼の世界の全てを支配していたはずだった。だが今、それらの音は嘘のように消え失せ、まるで深海の底にいるかのような、圧迫感を伴う静けさだけが、彼の鼓膜を支配していた。
彼は、ゆっくりと瞼を開いた。
目の前に広がっていたのは、見慣れた、しかし今はどこか非現実的に見える、薄汚れた裏路地のコンクリートの壁だった。鼻をつくのは、湿った埃と、生活排水の腐敗した匂い。そして、ほんの僅かに、硝煙にも似た金属的な匂い。
(……生きてる……)
その、あまりにも当たり前で、あまりにも奇跡的な事実を、彼は自らの肺が酸素を取り込むその感覚で、ようやく理解した。
彼は、まだ地面にへたり込んだままだった。足腰から力が抜け、立ち上がることができない。だが、彼の視線は、自らの目の前に立つ二つの人影へと、まるで縫い付けられたかのように固定されていた。
黒いスーツに身を包んだ、知的で美しい女性。霧島冴子。
その隣に立つ、岩のような体躯を持つ大男。火神猛。
彼らは、涼には一瞥もくれず、ただ路地の入り口、その闇の中へと消えていった「確率の魔術師」影山の気配を、鋭い視線で探っていた。
涼の脳内で、先ほどの光景が、壊れた映写機のように何度も、何度もリフレLイバックしていた。
崩れ落ちてくる巨大な貯水タンク。それを、こともなげに受け止める大男の、鋼鉄の腕。
銀色の天秤。そして、敵の「才能」そのものを奪い去るという、あまりにも理不尽で、あまりにも絶対的な、あの女の宣告。
あれは、何だったんだ。
夢か? 幻覚か?
いや、違う。
あの、肌を粟立たせるような圧倒的なプレッシャー。あの、魂の芯まで凍てつかせるような殺意の波動。それらは、あまりにも生々しく、あまりにも現実的だった。
彼は、この世界の、自分がこれまで信じてきた物理法則や常識が、全く通用しない領域へと、足を踏み入れてしまったのだ。
その事実が、遅れてやってきた恐怖の津波となって、彼の全身を飲み込んでいった。
震えが、止まらない。歯の根が、カチカチと嫌な音を立てる。
(……逃げないと)
彼の、生存本能が叫んでいた。
(こいつらも、同じだ。あのコートの男と、同じ世界の住人だ)
(関わるな。見てはいけない。知ってはいけない)
(俺は、ただの高校生だ。俺の人生は、退屈で、平和で、完璧な凪のはずだったんだ)
彼は、震える手足に必死に力を込め、壁を伝いながら、ゆっくりと立ち上がろうとした。そして、この悪夢のような場所から、一刻も早く逃げ出そうと、踵を返した。
だが、その背中に、氷のように冷たい、しかしどこまでも澄み切った女性の声が突き刺さった。
「――どこへ行くつもりかしら? 高槻涼君」
涼の足が、凍り付いた。
振り返ると、そこには、いつの間にか彼のすぐ目の前に移動していた、霧島冴子の姿があった。彼女の、そのあまりにも美しい瞳が、まるで獲物をいたぶる蛇のように、静かに、しかし有無を言わさぬ圧力で、涼の魂を射抜いていた。
「……っ……!」
声が出ない。
「少し、長話になるのだけれど。……付き合って、くれるわよね?」
それは、疑問形ではなかった。
それは、決して拒否することのできない、絶対的な命令だった。
§
涼が次に意識を取り戻した時、彼は高級車の、柔らかな本革のシートの中に沈み込んでいた。
いつの間に、気を失っていたのか。あるいは、あまりの恐怖に、記憶が飛んでいたのか。
車の外には、見慣れたはずの東京の夜景が、まるで異世界の風景のように、現実感なく流れ続けている。
運転席には、あの岩のような大男、火神猛が、無言でハンドルを握っている。バックミラー越しに見えるその瞳は、一切の感情を映していない。
そして、涼の隣。
助手席には、霧島冴子が、足を組み、静かに窓の外を眺めていた。
重苦しい、沈黙。
涼は、自分が今どこへ連れて行かれているのか、これから何をされるのか、全く想像がつかなかった。ただ、自らがもはや後戻りの出来ない場所へと足を踏み入れてしまったことだけは、確信していた。
彼の脳内で、無数の最悪のシナリオが渦巻いていた。
記憶を消されるのか? どこかの秘密施設に、一生監禁されるのか? あるいは、あのコートの男と同じように、この女の気まぐれで、何かを「喪失」させられてしまうのか?
恐怖が、彼の喉を締め付ける。
だが、そんな彼の内心を見透かしたかのように、冴子は、不意に、実に穏やかな声で言った。
「……怖がらなくても、大丈夫よ。私達は、あなたに危害を加えるつもりはないわ」
彼女は、ゆっくりと涼の方へと向き直った。その表情は、先ほどの路地裏での冷徹なそれとは違い、どこか教師が教え子に向けるような、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。だが、その瞳の奥底に揺らめく、底知れない光だけは、変わっていなかった。
「むしろ、私達は、あなたに感謝しているの。……あなたが、あの交差点で、あの少女を救ってくれなければ、今頃、一つの尊い命が失われ、そして我々の知らないところで、また一つ、世界に混沌の種が蒔かれていたはずだから」
「……混沌……?」
涼は、思わずといった風に、その言葉を反芻した。
「ええ」
冴子は、頷いた。
「詳しい話は、着いてからするわ。……ここから先は、あなたの目で見て、そしてあなた自身の頭で考えて、判断してほしいの。……あなたが、これからどちらの世界で生きていくべきなのかをね」
その、あまりにも謎めいた言葉。
涼は、もはや何も問い返すことができなかった。ただ、流れ続ける夜景の光を、呆然と見つめることしかできなかった。
やがて車は、首都高速のランプを降り、東京の中心部、丸の内へと入っていった。皇居の深い森と、最新鋭のガラス張りの超高層ビルが、奇妙なコントラストを描きながら共存する、この国の心臓部。
車は、その中でも一際高くそびえ立つ、何の看板も掲げられていない、黒いガラスで覆われた、まるで巨大な墓石のようなビルの地下駐車場へと、吸い込まれるように滑り込んでいった。
§
涼が案内されたのは、そのビルの最上階、おそらくは50階以上に位置するであろう、一つの広大なオフィスだった。
床から天井まで続く巨大な窓。眼下には、宝石を散りばめたかのように煌めく東京の夜景が、息を呑むほどのパノラマで広がっていた。内装は、極限まで無駄を削ぎ落とした、ミニマルで、しかし最高級の素材だけで構成された空間だった。まるで、SF映画に出てくる、未来の巨大企業の役員室。
涼は、そのあまりの現実離れした光景に、ただ圧倒されていた。
「……ようこそ。ここが、私達の職場。……『アトラス財団』、日本支部よ」
冴子は、涼を部屋の中央に置かれた、黒い革張りのソファへと促した。
涼が、恐る恐るそのソファに腰を下ろす。その身体が、まるで高級な沼に沈んでいくかのように、深く、柔らかく受け止められた。
冴子は、彼の対面に座った。そして、テーブルの上に置かれていたタブレットを、指先で軽やかに操作した。
すると、部屋の中央の空間に、青白い光の粒子が集まり、一つの立体的な地球儀のホログラムが、ゆっくりと回転を始めた。
「アトラス財団……?」
涼は、その聞き慣れない名前に、訝しげに眉をひそめた。
「ええ。表向きは、国際的な文化交流や発展途上国支援を行う、スイスに本部を置く一般財団法人。……でも、それはカモフラージュよ」
冴子は、その美しい唇の端に、ほんの僅かな笑みを浮かべた。
「私達の、本当の仕事。それは、あなたのような、特別な力を持ってしまった人――私達は、彼らを『アルター』と呼ぶのだけれど――そのアルターを、密かに管理し、そしてその存在を、一般社会から完全に隠蔽すること」
「……アルター……」
「そう。あなたも、もう心当たりがあるでしょう? あなたが昨日から見え始めた、あの『因果の糸』。それこそが、あなたの『スキル』。そして、そのスキルを所持しているあなた自身が、今日この瞬間から、私達の世界では『アルター』として認識されることになる」
その、あまりにも淡々とした、しかしあまりにも衝撃的な宣告。
涼は、息を飲んだ。
スキル。アルター。
それは、まるで漫画やゲームの中だけの言葉のはずだった。だが、目の前のこの女は、それをまるで天気の話でもするかのように、当たり前の現実として語っている。
「……何、言ってるんですか……。俺は、ただの高校生で……。あれは、幻覚で……」
「幻覚?」
冴子は、くすりと笑った。
「幻覚で、トラックに轢かれる寸前の人間を、救うことができるかしら?」
「……っ!」
涼は、言葉に詰まった。
冴子は、ホログラムの地球儀を操作した。すると、世界中の様々な場所で記録された、いくつかの映像が、次々と再生され始めた。
ニューヨークの街角で、一人の男が念動力で車を持ち上げる映像。
ロンドンの路地裏で、一人の女が自らの姿を、まるでカメレオンのように周囲の風景へと完全に同化させる映像。
そして、日本の横浜で、かつて一人の英雄が、崩壊していく橋を、その手で修復していく、あの伝説的な映像。
「世界は、あなたが見ていたよりも、ずっと前から『壊れて』いたのよ、高槻君」
冴子の声が、静かに響く。
「ただ、私達のような人間が、その壊れた部分を必死に繕って、あなたが信じていたような『平穏な日常』という名の、薄い壁紙を貼り続けていただけ。……でも、その壁紙も、もうあちこちで剥がれ始めてきている」
彼女は、ホログラムを消した。そして、その美しい瞳で、再び涼の魂を、真っ直ぐに射抜いた。
「少し、昔話になるけれど。……聞いてくれるかしら?」
涼は、もはや頷くことしかできなかった。彼の、そのちっぽけな理性の城は、今、目の前で起きているあまりにも巨大な現実の奔流の前に、為す術もなく崩れ去ろうとしていた。
冴子は、語り始めた。その声は、まるで古代の神話を語る巫女のように、静かで、そして荘厳だった。
「全ての始まりは、第二次世界大戦が終わった、あの混沌の時代。人類が、自らの手で作り出した史上最悪の地獄に絶望し、未来への希望を見失いかけていた、まさにその時。……この世界に、二柱の『神』が現れたの」
「神……?」
「ええ。もちろん、私達が教会で祈りを捧げるような、人格を持った神ではないわ。もっと、根源的で、宇宙の法則そのものに近い、超越的な『概念』とでも言うべき存在。……私達は、便宜上、彼らをこう呼んでいる」
彼女は、指を一本立てた。
「『スキル神』。そして……」
彼女は、もう一本の指を立てた。
「『邪神』、と」
「スキル神は、秩序を愛したわ。安定と、調和と、そして人類が自らの理性で、ゆっくりと、しかし確実に成長していく、その退屈だが美しい物語を、彼は好んだ。……そして彼は、その物語を維持するために、世界中の一部の人間たちに、ささやかな、しかし確かな『力』を与え始めた。それが、『スキル』の始まりよ」
「各国の政府は、当初、その力を恐れた。だが、やがて彼らはスキル神と密かに接触し、その力を国家の管理下に置くことで、世界の秩序を維持するための『駒』として利用し始めた。」
「……じゃあ、俺みたいな人間は、他にも……」
「ええ、世界中にね。もちろん、そのほとんどは、あなたのように自分の力に気づいていないか、あるいは気づいていても、それを誰にも告げずに静かに暮らしている。私達は、そういった潜在的なアルターを保護し、導くのが仕事よ」
冴子は、そこで一度言葉を切った。そして、その表情に、初めて暗い影が差した。
「……だが、光があれば、影も生まれる。秩序があれば、混沌もまた生まれるのが、この世界の理(ことわり)のようね」
「スキル神と、ほぼ時を同じくして、もう一柱の神もまた、この世界にその影響を及ぼし始めた。……邪神。彼は、スキル神とは正反対。彼は、混沌を愛した。安定を憎み、調和を嘲笑った。彼にとって、この世界はただの退屈しのぎのエンターテインメント。国家が崩壊し、人々が争い、英雄が絶望の淵で苦悩する。そんな、予測不能で、血生臭い物語を、彼は何よりも好んだの」
「そして、彼もまた、自らの物語を紡ぐための『役者』を、この世界に求め始めた。彼が力を与えるのは、社会から疎外された者、心に深い闇を抱える者、そして純粋に破壊と混沌を愛する者たち。……彼らは、邪神を自らの解放者として崇拝し、一つの巨大な、そして目に見えないテロネットワークを形成した」
彼女は、涼の瞳を、まっすぐに見つめて言った。
「――それが、『ウロボロス結社』。……昨日、あなたを殺そうとした、あの男が所属している組織よ」
涼の、背筋を冷たいものが走り抜けた。
ウロボロス。自らの尾を喰らう、蛇。始まりも終わりもない、永遠の混沌の象徴。
「……なんで、俺が……」
「分からないわ」
冴子は、きっぱりと首を横に振った。
「あなたの存在が、彼らの描く『脚本』にとって、都合の悪いノイズだったのか。あるいは、ただの気まぐれか。……あの連中の行動原理は、我々人間の理性では理解できない。……だが、一つだけ確かなことがある」
彼女は、立ち上がった。そして、窓の外に広がる東京の夜景を背に、涼に最後の、そして最も残酷な宣告をした。
「私のスキルで、あの男のスキルは『一時的に』剥奪した。だが、それは文字通り、一時的なものよ。いずれ、彼はその力を取り戻す。そして、必ず、またあなたの前に現れるわ。自らの芸術を汚され、そして我々の目の前で恥をかかされた。彼の、その歪んだプライドが、あなたを許すはずがない」
「……つまり?」
「つまり、あなたはもう、以前の日常には戻れないということよ」
冴子の声は、静かだった。だが、その一言一句が、死刑宣告のように、涼の魂に重く、重く響き渡った。
「あなたは、戦わなければならない。好むと好まざるとに関わらずね。……自分の、その命を守るために」
「だから、あなたには選択肢がある」
彼女は、涼の前に、その美しい、しかしどこか冷たい手を差し伸べた。
「――一つは、このまま一人で、いつ現れるとも知れない暗殺者の影に怯えながら、孤独に生きていく道」
「そして、もう一つは」
彼女の瞳が、ふっと強い光を宿した。
「私達の手を取り、この『アトラス財団』で、自らのスキルを使いこなすための訓練を受ける道。そして、その力を、あなたと同じように理不尽な運命に巻き込まれた、名もなき誰かを救うために使う道。……さあ、選びなさい、高槻涼君」
「あなた自身の、物語を」
それは、あまりにも壮大で、あまりにも理不尽で、そしてあまりにも、魅力的な誘いだった。
涼は、差し伸べられた冴子の手と、その背後に広がる煌びやかな、しかしどこか血の匂いがする夜景を、ただ呆然と見つめていた。
彼の、完璧だったはずの平穏な日常は、今、完全に、そして決定的に、終わりを告げた。
そして、彼がこれから足を踏み入れる世界の、そのあまりにも巨大で、あまりにも面倒な物語の、本当の幕が、今、静かに上がったのだ。
彼は、まだ知らない。
この選択が、彼をどこへ導くのか。
そして、彼が持つその『因果の糸』という力が、やがては神々のチェス盤そのものを、根底からひっくり返す可能性を秘めているということを。
彼は、ただ、生き残るために。
その、差し伸べられた手を取る以外の選択肢が、もはや自分には残されていないということだけを、痛いほど理解していた。
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