第2話 凪の終わり、あるいは因果の代償
高槻涼の、完璧だったはずの平穏な日常は、あの忌まわしい赤い糸を目撃した瞬間から、静かに、しかし確実に崩壊を始めていた。
自宅の、見慣れたはずの六畳一間の自室。だが、その壁も、天井も、床も、もはや彼に安らぎを与えてはくれなかった。目を閉じれば、瞼の裏にあの禍々しい糸の脈動が焼き付いて離れない。耳を塞いでも、トラックが少女を轢き殺す寸前だったあの轟音が、頭蓋骨の内側で木霊し続ける。
彼は、帰宅してからずっと、ベッドの上で死んだように横たわっていた。制服のまま、鞄も床に放り出したまま。夕食を呼ぶ母親の声も、どこか遠い世界の響きのようにしか聞こえなかった。
(……幻覚だ)
彼は、何度も、何度も、呪文のようにその言葉を心の中で繰り返した。
(疲れていただけだ。ストレスで、脳がバグっただけなんだ。明日になれば、きっと全て元通りになっている。俺の、退屈で、平和で、完璧な日常に)
だが、その自己暗示は、あまりにも脆かった。
彼は、自らの右手を、ゆっくりと顔の前にかざした。
この手。
この手が、あの少女の腕を掴んだ。
あの時、彼の身体を突き動かした、あの原始的な衝動。それは、高槻涼という人間が、これまで一度も経験したことのない、異質な感覚だった。面倒だとか、関わるべきではないとか、そういう理性のブレーキが一切効かない、魂の奥底からの叫び。
あれは、本当に俺だったのか?
彼は、鏡に映る自分を見るのが怖かった。そこにいるのは、きっと自分の知らない誰かだ。
そして何よりも、彼の心を蝕んでいたのは、あの少女の最後の顔だった。
恐怖と、困惑と、そして、あまりにも真っ直ぐな感謝の色を浮かべて、自分を見上げていた、あの大きな瞳。
あの瞳が、彼の築き上げてきた「事なかれ主義」という名の分厚い防壁を、内側から静かに、しかし確実に侵食していた。
(……もう、考えるのはやめよう)
彼は、無理やり思考を打ち切ると、重い身体を引きずるようにベッドから降りた。シャワーを浴び、着替え、そして何事もなかったかのように、机に向かう。宿題の、数学のプリント。無機質な数字の羅列に没頭すれば、きっとこの胸のざわめきも忘れることができるはずだ。
だが、彼がシャーペンの芯を出した、その瞬間。
彼の目に、再び「それ」が見えてしまった。
シャーペンの先端と、プリント用紙の二次関数グラフ。その二つの間に、ごくごく微かだが、確かに金色の「糸」が繋がっているのが見えた。
「ひっ……!」
彼は、悲鳴を上げてシャーペンを放り投げた。椅子から転げ落ち、壁際に後ずさる。
違う。
今度のは、あの時の禍々しい赤い糸とは違う。もっと、細く、穏やかで、まるで陽光を編み込んだかのような、美しい糸。
彼は、恐る恐る、部屋の中を見回した。
あった。
そこら中に、あった。
読みかけで放置していた文庫本と、彼の脳の記憶中枢を繋ぐ、銀色の糸。
床に転がっているゲーム機のコントローラーと、テレビ画面を繋ぐ、青い糸。
そして、壁に貼られた、幼い頃の家族写真。そこに写る、今は亡き祖父の笑顔と、自らの胸を繋ぐ、温かい、琥珀色の糸。
世界は、無数の、ありとあらゆる色の因果の糸で編み上げられた、巨大なタペストリーだった。
そして、そのタペストリーの本当の姿が見えてしまっているのは、この世界で、ただ一人。
自分だけ。
「……ああ……。あああああ……」
涼は、頭を抱えた。
これは、幻覚などではない。
これは、呪いだ。
俺の世界は、もう、壊れてしまったのだ。
彼は、そのどうしようもない真実を、絶望と共に受け入れるしかなかった。
§
その頃。
高槻涼が絶望の淵に沈んでいた、その数キロメートル上空。
とある高層ビルの、屋上。
冷たい夜風が、一人の男の着古したコートの裾を、不気味に揺らしていた。
男の名は、影山(かげやま)。
彼は、ポケットから取り出した銀色のジッポーで、咥えていた煙草に火をつけた。チッ、という硬質な音。紫の煙が、東京の光の海へと溶けて消えていく。
彼の目は、人間が放つその無数の光の集合体を、まるでゴミの山でも見るかのように、冷ややかに見下ろしていた。
彼の心は、純粋な苛立ちに満ちていた。
今日の、あの交差点での出来事。
あれは、彼にとって会心の「作品」となるはずだった。
彼のスキル、【確率のさざ波(リップル・オブ・プロバビリティ)】。
それは、派手な炎を出したり、物を動かしたりするような、三流の能力ではない。彼の力は、もっと芸術的で、もっと悪趣味だ。
彼は、世界のあらゆる事象に存在する「確率」という名の水面に、ほんの小さな、誰にも気づかれないほどの「波紋」を投げ込むことができる。
トラックの運転手が、ほんの0.1秒だけ脇見運転をする確率。
ブレーキパッドの摩耗が、限界値を超える確率。
少女が聴いている音楽の、最も盛り上がるサビの部分が、青信号に変わるその瞬間に再生される確率。
彼は、そういった無数の、些細な確率の波紋を、数時間前から丹念に、そして芸術的に重ね合わせていった。
そして、それらが全て完璧に交差する一点、あの交差点、あの瞬間に、一つの「不幸な事故」という名の、必然的な芸術作品が完成するはずだったのだ。
彼は、その赤い糸が、少女の命を断ち切るその瞬間の、その絶望の美しさを、この屋上から鑑賞するのを楽しみにしていた。
だが、あの少年。
高槻涼。
あの、名もなき、虫けらのような存在が、全てを台無しにした。
彼は、何者だ?
影山の、その鋭い瞳には、涼と同じように、因果の糸が見えていた。だが、彼に見えるのは、自らが操る確率の糸だけだ。
だが、あの少年は、明らかに、あの赤い糸を「見て」いた。そして、常人にはありえないタイミングで、その因果に「介入」してみせた。
(……イレギュラー……)
影山は、舌打ちをした。
(……神の気まぐれか。あるいは、アトラスの、新しい駒か……)
どちらにせよ、放置はできない。
自らの芸術を汚した、あの無粋な観客は、排除しなければならない。
彼は、煙草を足元に投げ捨て、軍靴の踵で踏み潰した。
そして、彼は再び、確率の水面へと意識を沈めていった。
今度のターゲットは、ただ一人。
高槻涼。
彼は、その少年の周囲に、新たな死の波紋を、いくつも、いくつも、投げ込み始めた。
(……せいぜい、楽しませてくれよ。名もなきヒーロー君)
(君のために、最高の死の舞台を、演出してやろうじゃないか)
影山の口元に、三日月のような、歪んだ笑みが浮かんだ。
§
翌日。
涼は、学校を休んだ。
とてもじゃないが、あの糸で溢れかえった世界を、正気で歩ける自信がなかった。
彼は、一日中、自室に引きこもっていた。だが、安らぎはどこにもない。糸は、部屋の中にも溢れている。テレビをつければ、画面の中の登場人物たちを繋ぐ、愛憎の糸が見えてしまう。ネットを開けば、匿名のコメントの一つ一つから放たれる、悪意の棘のような糸が見えてしまう。
彼は、もはや世界のノイズから逃れることができなかった。
夕方。
食料が尽き、彼は意を決して、アパートの外へと出た。近所の、コンビニに行くだけ。ほんの、数分。それだけなら、きっと大丈夫なはずだ。
彼は、フードを目深にかぶり、俯きながら、足早に夜道を歩いた。
だが、それは甘い考えだった。
彼がアパートの角を曲がった、その瞬間。
彼の脳内で、警報が鳴り響いた。
頭上!
見上げると、アパートの三階のベランダ。そこに置かれていた植木鉢と、彼の頭上数メートルの空間を繋ぐ、細いが明確な赤い糸が見えた。
「――っ!」
彼は、咄嗟に後ろへと飛びのいた。
その、コンマ数秒後。
ガシャアアアアアンッ!!!!
植木鉢が、彼の目の前の地面に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「……は……。は……」
涼の呼吸が、荒くなる。
偶然か? いや、違う。
あの糸は、確かに「意図」を持っていた。
彼の恐怖を裏付けるかのように、彼の視界の先、道路のマンホールの蓋と、彼の足元を繋ぐ、新たな赤い糸が出現した。
彼は、慌てて進路を変える。
彼が避けた、その数秒後。
ゴトッ、という鈍い音と共に、マンホールの蓋が僅かに傾ぎ、その下の暗い闇が口を開けた。
一台の自転車が、猛スピードで角から飛び出してくる。その軌跡の先には、赤い糸が。
一台のタクシーが、不自然なタイミングで急ブレーキを踏む。その停止位置には、赤い糸が。
そうだ。
これは、偶然じゃない。
何者かが、俺を殺そうとしている。
涼は、その事実を、絶望と共に理解した。
彼は、走った。
コンビニなど、どうでもいい。ただ、この悪意に満ちた世界から、逃げ出したかった。
彼は、裏路地へと駆け込んだ。入り組んだ、迷路のような暗闇の中へ。
だが、赤い糸は、どこまでも、どこまでも彼を追いかけてくる。
ビルの屋上から、鉄パイプが滑り落ちてくる。
駐車してあったバイクのサイドスタンドが、不自然に外れる。
彼の周囲の、ありとあらゆる「偶然」が、彼を殺すための牙を剥いていた。
「……はあ……っ、はあ……!」
涼は、息も絶え絶えに、一つの行き止まりの路地へと追い詰められていた。
背後には、冷たいコンクリートの壁。
そして、彼の目の前には、無数の赤い糸が、まるで巨大な蜘蛛の巣のように、張り巡らされていた。
もう、逃げ場はない。
彼は、その場にへたり込んだ。
(……終わりか……)
(……こんな、訳の分からないまま……。俺は、死ぬのか……)
彼の脳裏に、両親の顔が浮かんだ。
そして、昨日助けた、あの少女の顔が。
(……ああ。……やっぱり、関わるんじゃなかった……)
彼が、そのあまりにも人間的な後悔と共に、目を閉じた、その瞬間だった。
「――そこまでだ、ウロボロスの犬」
凛とした、しかし氷のように冷たい女性の声が、路地の闇に響き渡った。
涼は、はっとしたように顔を上げた。
いつの間にか、彼の前に、二つの人影が立っていた。
一人は、黒いスーツに身を包んだ、知的で美しい女性。その手には、奇妙なデザインの、天秤を模した銀色のオブジェが握られている。霧島冴子だった。
もう一人は、その女性の隣に立つ、岩のような体躯を持つ大男。その拳は、まるで鋼鉄そのもののように、鈍い光を放っていた。火神猛だった。
そして、路地の入り口、その屋根の上には、あの着古したコートの男――影山が、まるで舞台に登場した役者のように、静かに立っていた。
「……アトラスの、番犬どもか」
影山は、心底つまらなそうに吐き捨てる。
「……せっかくの、最高の舞台だったんだがな。……まあいい。まとめて、始末してやる」
彼は、手を掲げた。
すると、涼の、そして冴子たちの頭上。ビルの屋上に設置されていた巨大な貯水タンクを支えていたワイヤーに、何本もの極太の赤い糸が繋がり、その金属を軋ませ始めた。
「猛」
冴子が、短く命じる。
「御意」
猛は、一言だけ応えると、弾丸のような速さで前へと踏み出した。
そして、凄まじい轟音と共に崩れ落ちてくる数トンの鉄の塊を、その鍛え上げられた両腕で、正面から受け止めてみせた。
ゴオオオオオオオオオンッ!!!!
地響き。
だが、猛の足は、一歩も地面から動いていない。彼の腕は、傷一つ負っていない。
スキル【身体硬化】。
涼は、そのあまりにも非現実的な光景を、ただ呆然と見つめていた。
「……さて」
冴子は、猛が作り出した僅かな時間の中で、静かに影山へと向き直った。
「交渉の時間としましょうか、確率の魔術師さん」
彼女は、その銀色の天秤を、影山へと掲げた。
「選択肢は、二つ。一つ、その哀れな少年への攻撃を止め、大人しく我々に投降する。……もう一つ、このまま抵抗を続け、我々と事を構える」
「……ハッ。面白いことを言う。俺が、お前たちに降るとでも?」
「ええ、思っていませんわ」
冴子は、静かに微笑んだ。
「だから、教えてあげます。二つ目の選択肢を選んだ場合の、『代償』を」
彼女の、そのあまりにも美しい瞳が、ふっと冷たい光を宿した。
「――代償は、あなたのそのくだらない芸術の才能、すなわち『スキル』そのものの、一時的な喪失。……さあ、選びなさい」
スキル【契約の天秤】。
その、あまりにも絶対的で、あまりにも理不尽な宣告。
影山の顔から、初めて余裕の笑みが消えた。
「……貴様……。その力は……」
「時間は、ありませんわよ。……5、4、3……」
「……くそ……っ!」
影山は、絶叫した。
「……ふざけるなあああああ!」
彼は、最後の悪あがきとばかりに、周囲のありとあらゆる確率を、冴子へと収束させようとした。
だが、遅かった。
「――2、1、ゼロ。……契約、成立です」
冴子が、そう呟いた、瞬間。
影山の身体から、ふっと何かが抜け落ちるような感覚。
彼に見えていたはずの、世界の因果を操る無数の糸が、一瞬にして、ただのありふれた現実の風景へと戻っていく。
「……あ……。ああ……」
彼は、自らの両手を見下ろした。
もう、何も感じない。
ただの、無力な人間の手に戻ってしまった。
「俺の……。俺の、芸術が……!」
彼は、絶叫すると、その場から逃げるように闇の中へと姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、ただ一人、腰を抜かしたまま呆然と座り込んでいる、高槻涼だけだった。
冴子は、ゆっくりと涼の元へと歩み寄った。そして、その美しい顔を彼の目の前に近づけると、慈母のような、しかしどこか全てを見透かすかのような笑みを浮かべて、こう言った。
「――高槻涼君。……少し、長話になるのだけれど。……付き合って、くれるかしら?」
それは、あまりにも穏やかで、しかし決して断ることのできない、運命のスカウトの言葉だった。
涼の、その完璧だったはずの平穏な日常は。
今日、この日、この瞬間をもって、永遠に、そして決定的に、終わりを告げたのだ。
そして、彼がこれから足を踏み入れる世界の、そのあまりにも巨大で、あまりにも面倒な物語の、本当の幕が、今、静かに上がった。
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