第十一話「理解という毒」
午前9時15分、オフィスの窓際で、黒井は手のひらに乗せた一束の髪の毛をじっと見つめていた。昨日殺したあの女性のものだ。美しく整えられた黒髪が、まるで彼女の生きていた証のように繊細に揺れる。冷たく、静かな時間の中で、髪の束はただの物質に過ぎないはずだった。
しかし黒井にとっては、そこに生の残響が残っているかのように感じられた。
そんな彼の背後から、軽やかな足音が近づいてくる。秘書の佐藤だ。いつものように手帳を片手に、淡々と業務連絡を伝えに来たのだ。彼女の声は柔らかく、細やかな気遣いが隠されているのを黒井は知っている。黒井は振り返りながらも、すでに彼女の気持ちに気づいていた。わずかな仕草、視線の絡み、言葉の端々に含まれる好意。それはあまりにも明らかだった。
「今晩、僕と食事にでも行く?」
黒井の言葉は突然だった。普段の彼らしい冷静さはどこにもなく、どこか計算された誘いではあったが、その響きには妙な含みがあった。
佐藤は驚きながらも、すぐに微笑んで「行きたいです」と答えた。
「どこにする?酒場エンジンに行ってみたいって言ってたね」
黒井はそう言ってオフィスの電話から、店に電話をかけた。
「満席です」
電話口の店員の声が告げる現実。しかし、黒井は引かなかった。
「本当に?じゃあ、7時に二人で」
と強引に予約を押し通し、秘書に向かって「僕の家で飲んでから行こう」と笑った。その言葉の裏に隠された計算は、殺意そのものだった。店の予約も、秘書と過ごす時間も、すべては狩りの舞台設定に過ぎなかった。
その夜、秘書は黒井の家に来て、二人はワインを傾けながら静かに話し込んだ。
雑談の中で、黒井は子供の頃から感じていた「この世界に合わない」
という強い違和感を初めて口にした。誰にも言えなかった自分の孤独や、精神異常かもしれないという恐怖。秘書は黙って聞き入り、時にうなずき、時に優しく言葉をかけた。
「あなたのその苦しみ、私には分かります」と佐藤は言った。
その言葉は黒井の胸に深く染み込んだ。彼は初めて、自分の生きづらさを理解してくれる存在を得たような気がした。
「ここにいると、君を傷つけると思う」
突然、黒井はそう告げた。秘書は戸惑い、でも静かにうなずいた。彼女は愛情ゆえに危険を承知で近づいていたが、その心を黒井は壊してしまうかもしれない恐怖に苛まれていたのだ。
秘書は帰っていった。扉が閉まる音が部屋に響き、黒井は深いため息をついた。
普段なら、せっかくの殺すチャンスを逃した自分を責めていた。しかしこの夜、彼の心はそれとは違った複雑な感情に支配されていた。
殺意は消えていなかった。むしろ、秘書に抱いた理解と共感が邪魔をして、彼の中で混乱の波紋を広げていた。生きづらさを分かり合えると思った相手を、目の前にしてその命を奪うことの矛盾。だが、だからといって情を捨てることもできない。彼は冷酷な殺人者である以前に、どこかで人間としての感情をまだ持っているのだ。
それでも、秘書の存在は危険だった。
「これ以上近づくな」
その言葉は自分に対する警告でもあった。
黒井は深い闇の中で、自分の“矛盾”と向き合っていた。殺意と共感、冷酷さと弱さ、どちらも捨てきれず、共存させてしまったその心は、今までにない苦悩に満ちていた。
殺すことは、ただの“目的”ではない。殺すこと自体が、彼の存在証明であり、世界への復讐だった。
そして、今日もまた彼は人前で“人間のフリ”をする。
けれど、その奥底では、闇の中で絶え間なく蠢く殺意が静かに燃え続けていた。
――いつか、殺さなければならない誰かのために。
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