第九話「殺意の証明」

午前8時30分。

会社のロビーは、いつも通りの虚飾に満ちていた。冷え切った空調の下、壁に掛かる高価そうなアート、そして煌びやかなガラスの自動ドア。そのすべてが、ここに集う者たちの虚栄心を映し出している。

「おはようございます、黒井さん。今日も元気そうですね」

同僚の軽い挨拶が耳に入るが、俺の意識はすでに別の場所にあった。薄く笑みを浮かべながらも、内側では何かがざわついている。

「ところでさ、黒井くん。見たか? 鈴木の新車。メルセデスのSクラス、さすがにやるな。あのロングホイールベースはさすがって感じだ」

「うん、でもあのマンションも負けてないよ。赤坂のタワーマンション、眺めが最高らしい。家賃だけで月50万とか」

「俺の彼女は今度銀座のイベントに出るってさ。最近可愛くなったって評判だぞ。まあ、俺が選んだからな」

誰が一番高価な車に乗っているか、誰の住む場所がもっとも豪華か、誰の彼女が一番美しいか。そんなくだらない勝負が、俺たちの価値を決めるらしい。みんな、無意味なステータス競争に必死だ。

その時だった。

普段は静かで口数も少ない、青山が突然口を開いた。社内では存在感の薄い彼が、まるで影のように静かに存在している。そんな彼が、いきなり声を上げた。

「新しい名刺、見せてやるよ」

一同の視線が彼に集まる。普段は聞き役の彼の言葉に、少しの戸惑いと興味が混ざった空気が漂う。彼はゆっくりとポケットから一枚の名刺を取り出し、手のひらで軽く指先に乗せて見せた。

「見てくれよ、この質感。黒に金の箔押し。フォントは間違いなく特注だ。紙質も厚みがあって滑らか。ここまで凝った名刺はなかなかない。明らかに一流の仕事してるな」

名刺の表面はマットな黒。控えめな光沢を放つゴールドの文字が高級感を演出している。手触りは滑らかで、角の処理も完璧だ。まるで手の中で凶器のように冷たい刃先が触れるような、そんな感触を俺は覚えた。

「こんなの、俺を殺す理由に十分だろ?」

青山は冗談っぽく言った。

だが、その言葉に、俺の心の奥底で何かが激しく反応した。黒井隼人の中に潜む邪悪な衝動が、震える指先に火をつける。血が沸き立つような感覚と共に、暗く深い闇が胸の中でざわめき始めた。

青山は名刺をポケットにしまうと、何事もなかったかのように席を立った。

「ちょっとトイレに」

俺は無意識のうちに、後をつけていた。心拍数が上がり、足音を抑えながら静かに彼の後ろを追う。

トイレの個室の前で、俺は車の中にしまってある高級な革手袋を取り出し、慎重に装着する。冷たくも滑らかなその手袋の感触が、俺の覚悟を後押しする。指先が痺れるような興奮を覚えながら、ゆっくりとドアを押し開けた。

狭い空間の中、そこにいる青山の背中を見つける。無言のまま近づき、彼の首筋に手を回す。緩めることなく、徐々に締め上げる感触を確かめながら、呼吸の変化を探る。

だが、その瞬間、青山の低い声が耳元に響いた。

「ありがとう、黒井さん」

その言葉に、一瞬、手が止まった。動揺と困惑が胸を締め付ける。

振り返ると、青山は微笑みを浮かべていた。

「君がこうして僕を見てくれているなんて、嬉しいよ」

彼は自分の性的嗜好をほのめかすように、ゆっくりと目を細める。俺の胸に嫌悪と戸惑いが同時に押し寄せた。

気持ち悪さと嫌悪感が入り混じり、俺はせっかく見つけた獲物を自ら手放したのだ。

「殺せたはずなのに殺せなかった」

そんな感情が、黒井の心の中で二連続で支配的になり始める。

焦燥。怒り。苛立ち。

これまでの自分の失敗が、灰色の重石となって心を締め付ける。

このままでは終わらない。

「一人、二人じゃ気が済まない」

心の中で、殺意が静かに、しかし確実に膨れ上がっていく。

彼の邪悪な内面は、闇の底で胎動し、次の獲物を求めて渇望しているのだ。

「完璧な殺しを、必ず成功させる」

それが、黒井隼人の新たな誓いとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る