第4話


「そういえば話が随分逸れてしまったけど、どうして司馬家の話になったのかな」


 陸議りくぎは思い出した。


「いえ、本当に些細なことで……徐庶じょしょさんが長安ちょうあんの都に戻られるので、洛陽らくようの母君の許に戻られるのかと思っていたのですが、今回はすぐに江陵こうりょうに出発するので、挨拶は控えて長安に留まると仰ったので」


「そうか。すっかり忘れてた。確かに徐庶君の母上は洛陽にいらっしゃったね。

 それなら母上に長安宮に来て頂いたらどうかな。それくらいなら私が手配するよ」


「あ……」


「?」


「それが、母君は一年近く牢に入れられていたことがあるので、それ以来あまり身体の具合が良くないようなのです。特に足がお悪いようで」


「そうなのか。それではやはり、徐庶君が会いに行った方がいいわけだね」

「はい……ただ、徐庶さんはあまり拘ってはないようなのですが」


「徐庶の好きにしたらいい。今更彼が洛陽に行ったくらいで裸足で逃げ出すとは思わないし、洛陽にしばし行きたいなら、私は行って来ていいと言っていたと君から話しておいて。

 どうせ行き着く先は江陵だ。長安から出発する時に彼に報せを出してもいいし。

 腐っても軍師なら行き先が分かってる合流地点で、速やかに別の所から私たちを探し出して合流するくらいの芸当は見せて貰いたいものだしね」


 そのあたりで、くしゃみが聞こえた。

 郭嘉が笑っている。


「近くにいるなら、呼んで」


「徐庶さん」


 馬車のすぐ近くに司馬孚と徐庶はいた。

 陸議が窓を開いて呼ぶと、徐庶が馬を近づけて来る。

 郭嘉はゆっくりと起き上がった。


「陸議君から聞いたよ。折角戻ったのに洛陽の母上の所に顔を見せに行かないでいいのかい?」


「あ……はあ……、まあどうせすぐ江陵に出るので……挨拶してすぐ江陵行きを知らせるのも迷惑かなと」


「君は淡泊な男だな」


「郭嘉殿は、洛陽に行くつもりなら好きにしていいと仰ってます」


「君が母君を含める女性達に近くに来たのに会いに来ないなんて、とても淡泊な男だなと思われて失望されるのは君の勝手だけど、だからといって私まで帰還を許さない融通の利かない上官だなんて非難されるのは心外だからね。

 私に母親がいたら、多分会いに行ったよ。

 父親には会いに行かないけど。

 母親や姉妹がいたら、彼女達は心配はさせてるだろうからね」


「……郭嘉殿は今回、瑠璃るり殿に連絡を取られますか?」


 毛布を整えていた郭嘉がふと、顔を上げた。

「貴方の涼州遠征を心配されていた、妹君に」

「そうだった。私には妹がいたんだった」

 郭嘉は本当に忘れていたらしく、閃いたように言った。


「私のお腹にこんな深い穴が空いてなかったらこんな暢気に馬車移動なんかしてないで、風のように許都きょとまで走り抜けて可愛い妹に会いに行ったさ。当然だろ。

 陸議君だってたった一人のお姉さんに会いに行きたかっただろうに重傷を負ってるから涙を堪えて今回長安留まりなんだよ。

 それに比べて君はかすり傷一つも負ってないのに大切な女性に会いにも行かないなんて、薄情以外の何ものでもないよね」


 同意を求められ、徐庶の手前「うん」とも言いにくく陸議は返答に困った。


「生憎我が家は元々淡泊な付き合いの親子なので」


「分かってないなあ。君がそういう性格だから、分かっていて母君もそういう風に振る舞ってくれてるんだよ。本当なら会いに来て欲しいと思ってても、敢えて言ってないだけだ。そうだよね、陸議君」


「は、はい。多分、その……恐らく」


「まあどうしてもそんな暇はないと言うなら無理にとは言わないけど。

 その代わり滞在する長安で相当江陵のことについて調べて準備してくれるんだろうね?

 それならいいんだ。家のことには私も口出す気はないし。

 洛陽に戻るか戻らないかは、君の好きにしたらいいよ」


 郭嘉は側にあった水を椀に少し注ぎ、飲み干すと、またゆったりと優雅に横になった。


「……。………………はい。もう少し、どうするか考えてみます…………。」


 郭嘉は目を閉じ、すでに寝に入ってしまった。


「す、すみません。私が余計な話をしてしまって」

「いや、いいんだ。確かに俺の頭に洛陽に戻るなんて考えは端から抜けていたし」



「君が駄目なのはそういうところだよ」


 

 寝たのかと思った郭嘉が辛辣に言い放つ。


「……。」

「……。」


 寝たんじゃなかったんですか……というような顔をした徐庶に、慌てて陸議が声を掛ける。


「……は、母君は喜ばれると思いますよ。

 確かに、すぐに江陵に発つと言えば心配なさると思いますが、我々の仕事はそもそも、そういうものです。

 一つ一つの別れや再会は、それぞれに尊いものです。

 幾つあろうとなかろうと、母親は嬉しいと思うものなのでは」


 徐庶がこちらを見た。

 何か、心を見透かされたような気がして陸議は俯く。


「……すみません、母親のいない私が言っても、なんの説得力もないと思いますが……」


「いや」


 徐庶は表情が読みにくいのだ。

 表情が動く直前まで、感情が見えない。

 徐庶の表情が緩んで、彼が笑ってくれたので陸議は安堵した。


 徐庶と母親の関係は、複雑なのだ。

 気安く他人に触られたくないだろうことは分かったので、てっきり彼の気分を害したかと思ったがそうではなかったらしい。


「そんなことはない。

 結局、家族のことだ。

 君が亡くなった養父殿のことを、とても大切に想ってることは伝わって来る。

 母親がいても、きっと同じように大切にしただろう。

 俺が母親のことを案じないのは、本当に頭から母親や家族がいるという自覚が抜け落ちてるからなんだよ。

 言われて、気付く。

 こういう時に会うと、家族は嬉しいものなのかって」


「結婚でもしなよ徐庶。君は軍略にどれだけ聡くとも、家族の方は子供みたいに素人だ。

 結婚でもして少しは家族を勉強したら? 言っておくけど私も小さい頃から母が無く、家にも寄りつかなかったけど、他人の家には遠慮も無く転がり込んでいたから家族のことはこれでも結構詳しいよ。

 君はこれまでの親不孝を改めるつもりで蜀から魏に来たのに、まだ長安に帰還した時に『そうだついでに母親の顔でも見て来ようかな』とも思えないのか。

 修行が全然足りないよ」


 また寝たと思った郭嘉が的確に指摘して来る。

 彼は随分喋ってから、ふと気付いた。

 

「そうか。君に妻子がいれば容易く人質に出来たのになあと思ってたけど、何も妻子じゃなくてもいいかもね。

 陸議君、君さえ良ければ療養は、洛陽の徐庶の家でしてくれるかな?」


「えっ?」


 突然身を起こして、郭嘉が言った。

「いえあの……私は……」


「郭嘉殿……今度は何を企んでいるんですか……」


「企むなんて人聞きが悪いなあ。

 ほら、君の所は君も知り合いがいないし、母君もそういう君を介して人付き合いがないから、いざという時に質の取り甲斐がないだろ。

 陸議君を君のお母さんに紹介してなんて感じのいい青年なんだろうこんな子が息子の同僚だなんてとてもいい環境で仕事をしているのね、などと思われたらいざという時、陸議君を使って君のお母さんを動かして、君を説得させ、こちらの意のままに動かすことが出来るかもしれない」


「……あの……郭嘉殿……そういう企みは出来れば胸に秘めておいてもらえると有り難いんですが……」


「だから企みじゃないって言ってるだろう。ほんの提案で、些細な思いつきだよ。

 陸議君を徐庶の母上が気に入ったら定期的に君に『陸議殿に迷惑を掛けては駄目よ元直げんちょく』などと素敵な圧を加えてくれるかもしれない。

 まあ妻子がいれば一番効果的なんだけど、私と違って君は明日にでも結婚しろと言っても絶対すぐ相手が見つかるような要領の良さはないだろうし。

 友人で代用する方が話は早いだろう」


「いや……あの……そうではなく……そういう風に利用するって言われた陸議殿の気持ちとかですね……」


「どうかな陸議君。十年以上連絡すら寄越さず行方不明になってた息子を激しく説教もせずに迎えてくれたお母さんだ。きっと懐の広い優しい方だと思うけど、他人の家で養生はしにくいかな?」


「い、いえ。私は許都でも結局他人の家暮らしですので。ただ、あの……折角親子水入らずのところへ赤の他人の私が転がり込むというのも母君と徐庶殿にご迷惑極まりないかと思って……」


「そんなことないよね。徐庶君。これだけ陸議君に心配されて色々助けて貰った君が、陸議君がお家に来るのを迷惑だなんて思う男だったら、今ここで君を私が斬り捨ててやってもいいくらいだ」


「あ、あの郭嘉殿、……」


「いえ。俺の所は元々家族団欒とは程遠いので、むしろ母と子二人きりで水入らずにされても会話に困るような塩梅ですから、陸議殿が他人の家でも気にしないで過ごせるようでしたら、構いませんが……」


「ええええっ! 徐庶さん⁉」


 そこは断るところでは⁉ と思ったのに受け入れられて、陸議は戸惑った。


「陸議君を伴うなら洛陽に行ってもいいよ徐庶。出発する時は私が洛陽に呼びに行ってあげるから、ゆっくりしていい。丁度洛陽にも会いたい人達がいるしね。

 その方が話が早い。

 私は長安で曹操殿と話がしたいんだ。陸議君を預かるなら私邸にちゃんと戻ろうかと思ってたけど、陸議君が洛陽に行くならゆっくり城で私も療養するよ。

 陸議君を連れて行ったらさすがの君も今なら自由になれるとか思って裸足で逃げ出さないだろうし」


 郭嘉はさっき、理由など無く今更徐庶は逃げ出さないだろうと言っていたので、明らかに今思いついて付け足した理由だな……と思いながら陸議は徐庶の方をチラと見る。


「今更母親と二人きりにされても喋ることないなあと思ってたけど、君が来てくれるならきっと間が持つ。いや実際母親も、久しく俺と暮らしてないから、息子の世話をするより客人の世話をする方が遥かに気苦労がないんだよ。

 前に帰った時も好きな食べ物はなんだとか衣の丈はどのくらいなんだとか、母子の会話と言うより尋問みたいな遣り取りになってしまったから、再び同じことになるのは避けたいからね」


「でもあの…………私は、すごく、赤の他人ですが……転がり込んでも本当に、ご迷惑じゃないのでしょうか……」


 恐る恐る徐庶に再度尋ねると、徐庶は声を出して笑った。


「いや。赤の他人で済ますには、勿体ないくらい、涼州遠征では君に世話になったよ」


「そうだよ。徐庶。幾重にも釘を刺しておくけど、陸議君は私が娶るかもしれない女性のたった一人の大切な弟だからね。粗末に扱ったら酷い目に遭わせるよ」


 郭嘉は全然眠気が無いようだ。


「俺は正直、どっちでもいいくらいの気持ちなんだ。

 君が長安で療養するなら、今回は俺も長安に留まるよ。

 洛陽には江陵での任務が終わってから戻ればいい。

 春頃ならそんな遠い未来の話じゃない。俺はそれで全く構わない」


 遠い話に、なるかもしれないのだ。

 陸議は言葉に出さず、心の中で徐庶に言った。


(江陵で貴方がどういう働きをするかによって、遠い、実現出来ない話になるかもしれないんです)


 だから、正直今回徐庶には母親に会ってきて欲しかった。

 陸議は洛陽で徐庶の母に約束したのだ。

 涼州から徐庶が無事に帰れるように力を尽くすと。


 これから先のことは陸議一人で決められないが、あの約束だけは守ったと思いたい。


 きっと徐庶の母親は、息子が戻って来たら喜んでくれるだろう。



「君が洛陽の療養で構わないと思ってくれるなら、俺も家に帰ってみるよ」



 自分が洛陽に行けば、徐庶も洛陽に来てくれるのか。

 それでも他人の家に転がり込むという無粋に慣れていない陸議は、恐る恐るもう一度確認するように尋ねた。


「あの……徐庶さん……私は本当にご迷惑なのでは……」


 徐庶は年下の青年が本当に申し訳なさそうに言うのを見て、笑った。

 彼は多分、郭嘉の強い発言の手前、自分が嫌でも断れないのだろうとでも考えているに違いなかった。


 そうではないのだと、そういう意味を込めて、徐庶は心配そうな陸議の頭を軽く撫でた。


「本当に迷惑だったら隠さずに言うよ」


 笑いながら、徐庶は馬車から離れて行った。



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