第3話



 郭嘉かくかは馬車の椅子に器用に足を曲げて横になり、眠っている。


 こういうところは周瑜しゅうゆとは違うんだな、と思う。


 周瑜はとにかく日常些細な場面でも気を抜いた所を見せるということがなく、彼とは兄弟のように生きて来た孫策そんさくがその辺で転がって寝る性分でも、周瑜はちゃんと違った。


 周瑜は孫策の為に、周家を飛び出し、彼の許に馳せ参じたという。

 それでも幼い頃から周家という名門の家に育ち、躾けられた、そういう面が彼には残っている。残っていても尚、孫策のように辺境からのし上がってきた孫家の人間に、堅苦しいだけの奴だと思わせない、懐の広さや大らかさが周瑜にはあった。


 郭嘉の家のことや家族のことはあまり知らなかった。

 以前司馬孚しばふが「失礼ながら郭家は、郭嘉殿があまりに異質かと」と言っていたので、家自体が名を馳せた名門という訳では無いのだろう。

 だが豪族で、きちんとした教育と躾を与えられている。


 馬車が走る震動で、郭嘉の身体に掛かっていた毛布が落ちそうになっていたので、陸議はそっとそれを戻して掛け直した。


 自分の椅子に戻り、目を閉じる。




「……君のお姉さんも、君に似てそんな風に優しいのかな」




 閉じた瞳を開くと、郭嘉が目を閉じたまま唇に笑みだけ見せていた。

「すみません、起こしてしまって……」

「いや、意識はずっと起きてたからいいんだよ」

 郭嘉がゆっくりと瞳を開く。

 鶸色ひわいろの明るい瞳が、燭台の火のせいで一層明るく見えた。


 周瑜も非常に瞳が印象的な所があって、

 その直視を受けると、讒言ざんげんを言う気持ちにならなくなるのだ。


「長く大病を患って、ずっと寝たきりになっていたから。

 こういう寝ながらも外界の気配を探れる芸当が身についてね。

 みんな和やかに休息は取れたようだ」


「はい」


「良かったよ。天気も良さそうだし、明後日くらいには長安ちょうあんにつけそうだね」

「はい」


「それで――君のお姉さんも君に似てそんな風に優しいのかな?」


 全然はぐらかせない、と思い陸議は観念する。


「女性なので、はい……私よりはずっと」


 くすくすと笑う声が聞こえて、陸議はハッとした。

 郭嘉が笑っている。自分はからかわれているのだ。


「郭嘉殿……」


「私はね、陸議君。正直な所、女性の性格が優しかろうが厳しかろうが、美しい人なら眺めながらあれこれ楽しめるんだよ。ただ敢えて希望を言わせて貰えるなら、君のお姉さんも君ほど真面目でからかい甲斐があると嬉しいなぁ」


 これも周瑜とは違う部分だった。

 周瑜は後輩の才気を試すことは好んだけれど、生真面目な後輩をからかって暇を潰したりはしなかったから。


司馬孚しばふ殿から、司馬家の話を聞いていました。

 あそこはご兄弟が多いので、兄弟のおられない徐庶さんは驚いていましたが」


「八人いるからね。私は本流に弟が二人いるよ。外にはもうちょっといるらしいけど、父が正妻以外を妾としても認知してないから関わりは無いし。

 自分の子供を産んでくれた女性なら正妻でなくとも認知し、生活など少しは支えてあげるべきだと父にも言ってるんだけど、向こうもすでに承知で結婚してるんだから余計な口出しは火種になると言って全然取り合ってくれない」


 郭嘉から兄弟の話は全く聞かない。親しくはないのだろうか。

 そういう疑問が顔に出ていたのか、郭嘉は笑った。


「私は流れ者だから、まあ普通の兄弟のように出仕しても一年に何度か会って、というような感じではないね。でも疎遠というわけでも無くて、たまに会う親戚のような空気かな。

 近場に行った時には思い出してお土産を持って訪ねに行くくらいは私もするし、そういう時は久しぶりだ久しぶりだと弟夫婦も喜んで歓迎してくれるから。

 私にとってはいい具合の関係性だ」


「弟君はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」


「一人は洛陽らくよう。一人はぎょうの方にいるよ。高官ではないけれど、県の役職に就いている。

 二人ともすでに家庭を持っていて、真面目に仕事をこなす質だから、十年後には行政の重役にでもなれると思うよ」


「そうなのですか……郭嘉殿は洛陽や許都きょとに戻られたら、弟君の許を訪問されますか?」


「その時々だね。気が向いたらという感じかな。

 父にも近くに寄ったら顔くらい見せろと昔から言われてきたけど、人は会いたいと思った時に会いに行くべきだというのが私の持論だ。

 戦人いくさびとのようなことをしているといつ会えなくなるかも分からないから、理由が無くても顔を見せるだけで意味あることだと、文若ぶんじゃく殿にもよく言われて来たけど。

 私はそうは思わないんだ。

 意味もなく顔だけ見せて、会ったような気になるのは違う気がする。

 病が治って一日一日、生きていることを感謝するけど、だからといってその辺りの考えは私は変わらないみたいだね。

 この時代、戦や病である日突然二度と会えなくなることはある。

 だから必要な人に、必要だと思った時に会うんだ。

 惰性や無意味な辞令に時間は割かなくていい」


 郭嘉は言ってから、突然思い出したように少し上半身を起こした。


「でも『妻』は勿論特別だよ」

「えっ?」

「妻が近くに寄った時は必ず顔を見せてくれと頼んでくれるなら、私は喜んでそうするから。あの人は家族にも情のない人だから、結婚しても大切にしてくれないだろうなんてお姉さんに忠告したら、だめだよ」

「は、はい。もちろん。余計なことは、言いません」

 また冗談かと思ったのに、それを聞いた郭嘉は随分安心した顔をして、寝そべり直した。


「自分の主君を選ぶことは、大変な決断だ。

 女性にとっては夫を選ぶことは、男が主君を選ぶのと同じようなことだと思う。

 この人の許で人生を尽くそうと思って彼女達は男を選んでくれる。

 理由は例え様々でもね。

 だから男は、妻は立てて大切にしなければ。

 この人に嫁いで良かったと思わせられない男は駄目だ」


「……はい……」


「妻と言えば。

 ――孫家の姫が、劉備りゅうびに嫁いだまま帰って来ないのは理由が気になる」


 陸議はドキとした。

 数秒前まで冗談で笑い合っていたのに、突然そんなことを郭嘉は言って来た。

 やはりこの人と話していて、気を抜ける瞬間などないなと思う。

 こういう所は本当に周瑜に似ている。


「今は確かに戦線は膠着しているから、そういう曖昧な立場でも許されるのかもしれないけれど、逆に言うと戻る戻らないの話は今しか決着が付かない気がするよ。

 呉と蜀が本格的に江陵こうりょうで開戦したら、彼女の立場は益々危うくなるんじゃないかな。

 まだ若い姫だと聞いたけれど、劉備からすると彼女に子が出来ても、今更その子供のために孫権そんけんが戦を躊躇うような相手だと思うほど暢気じゃないはず。

 孫権には複数人息子がいるし、それこそ姫もいるしね。

 確かに孫堅そんけんの一人娘だが、政略的な価値は、呉蜀同盟が決裂した今さほどないように思う。

 利用価値もない姫を何故劉備は返さないのかな?

 彼女の処刑をちらつかせて開戦時に優位に立ちたいという思惑なら、参謀として側にいる諸葛亮しょかつりょうは【臥龍がりゅう】などと大層な名前で呼ばれてても、随分甘い考えの男だ。

 劉備もだけど、彼女に関しては孫権も情が薄い。

 利用価値でいうなら呉に帰った方がまだある。

 彼女がもし、今後大陸の誰かに嫁ぐようなことがあれば、生まれた子供は何らかの意味を持つ可能性もある。

彼女に関しては劉備に利用価値がなく、孫権にはまだ利用価値が無いわけではないのに、どうして彼女はまだ成都せいとにいるのか」


「……。」


 陸議もそれは不思議に思っていた。

 単に呉蜀同盟が決裂した今、孫黎そんれいを呉に律儀に返してやる義理が、ひたすらないことが理由かもしれないが最悪彼女がいることで、孫呉に蜀への侵攻理由を作るかもしれないのだ。

 

 本当に、今の孫黎そんれいには、蜀に……劉備の側にいる理由が一つも無い。


 ただ、敢えて理由をあげるなら。


「結局『離れがたい愛情』しか理由は見当たらないんだが。誇り高い孫家の姫が――父親に大切に育てられて、兄たちにも愛されて来た一人娘が、そんな理由で国を捨てるだろうか」


「……だからかもしれません」


 陸議は孫黎そんれいを知っている。その性格を。

【江東の虎】と謳われた勇猛な父を持ち、それを誇りにしていた。

 突然の暗殺でその父を殺され、それでも彼女が笑って生きていられたのは兄の孫策そんさくが、父を彷彿とさせる姿で江東こうとうを平定し、力を示して彼女を大切にしたからなのだ。


「強大な曹魏に対抗するために呉と蜀は同盟を組む方法を模索しました。

 曹魏に仕掛けられたから、彼らは生き残るために呉蜀同盟を結んだ。

 姫はその政略を助けるために劉備りゅうびの許に嫁したのです。

 間違いなく政略結婚で、自分で望んだ婚礼ではなかった。

 それまでの生活が幸福だったからこそ、嫁した時の失望は計り知れなかったはず」


「そうさせた孫権そんけんを憎んでいる?」


「彼女の心境は分かりませんが、豪傑の娘です。

 強く愛した何かを忘れるためには、泣いて悲嘆に暮れるか、それを強く憎んで心を遠ざけるしかありません」


「豪傑の娘なら、泣き暮らしたりはしないか。

 ……確かにね。では彼女に関しては、むしろこれからは劉備側の人間として見た方が言動が探りやすいかもしれない。

 いつまでも孫家の姫だと思っていると、思いがけないところで足下を掬われるかも。


 実は私たちが江陵こうりょうに行くのと同じ時期に、賈詡かく成都せいと方面に探索に入る。

 ああ、抜かりのない男だからそんな心配そうな顔はしなくていいよ。

 死に親しい私でも、あんなに殺しても死ななそうな男は珍しいと思うくらいだからね。

 賈詡には司馬懿しばい殿が孫家の姫の動向は調べてくれと一応言っておいたみたいだ。

 もし面白い話を持ち帰ったら、一緒に聞かせて貰おう」


「はい」



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