第二章:休まらない休日
休みの日の朝、青年は久しぶりに目覚ましをかけなかった。
時計を見ると午前十時を回っている。だが、体の芯は重く、眠り足りたような足りないような奇妙な倦怠感が残っていた。
窓のカーテンを引けば、外は淡い日差し。休日の静けさが街を包んでいる。
「やっと休みか……」とつぶやく。だが心はどこか落ち着かなかった。
頭の中に浮かぶのは、昨日の客の言葉だ。
「今度、もう少し酸味を強めにしてほしいな」
「柑橘を使ったドレッシング、きっと合うと思う」
たったそれだけの会話が、青年には約束のように響いていた。
彼は気づけば外に出ていた。スーパーの売り場に立ち、並んだ果物に手を伸ばす。レモン、ライム、みかん。手に取るたびに「どれならあの客を喜ばせられるだろう」と考える。休日を楽しむ客たちに混じり、彼の心は厨房の延長にあった。
帰宅すると、すぐに小さな実験が始まった。
ボウルに果汁を搾り、オリーブオイルと混ぜる。酸味と甘味のバランスを確かめ、比率を変えては味見する。
「これじゃ酸っぱすぎるな……」
「いや、もっと軽い酸味の方がいいかも」
つぶやきながらスプーンを口に運ぶ。額にはじんわりと汗が滲み、休みの日だというのに体は厨房での仕込みと変わらない。
ノートには次々と数字と感想が書き込まれていく。
「レモン2:オレンジ1 やや尖る」
「ライム1:グレープフルーツ1 苦味が立つ」
一つのレシピを仕上げるために、休日がどんどん削られていった。
ふと窓の外を見ると、陽は傾き始めていた。
「なんで俺は休みの日まで、こんなことを……」
口元に苦笑が浮かぶ。けれどペンは止まらない。
次にあの客が来たとき、笑顔で「美味しい」と言ってほしい。その想いだけが彼を動かしていた。
夜、出来上がった試作品を皿に盛り、ひとりで味わう。
「……悪くない」
だが胸の奥には満足よりも、奇妙な空虚感が残った。
休みを使い果たして生まれたのは、一皿の小さな進歩。達成感よりも、休日を失った喪失感の方が大きかった。
布団に入っても、頭の中は次の改良案でいっぱいだった。
「もう少し酸味を柔らかく……」
「次は蜂蜜を少し足してみようか」
目を閉じても厨房の匂いが鼻に残り、眠りは浅い。
休みの日が、休みではなくなっていく。
自由を求めて手に入れたはずの時間が、客との口約束によって縛られていく。
「俺は、いったい何をしているんだろう」
そう思った瞬間、胸に小さなひびが入るのを感じた。
そのひびがどこへつながっていくのか――このときの青年は、まだ知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます