休まらない休日

剣崎 ソウ

第一章:新しい厨房

 昼の仕込みの湯気が、低い天井にうっすらと滲んでいた。

初出勤の僕は、貸与された黒い前掛けの紐を結び直し、厨房の動線を目でなぞる。皿が戻る位置、洗い場からパス台までの距離、レードルの吊り下げ順。頭の中で線を引き、結び、ほどく。ここでの正解を、最短で見つけ出したかった。


「君が今日からの新人ね。柚木(ゆずき)っていいます。よろしく」

振り返ると、店長は小さく会釈した。四十代半ば、静かな目をした人だ。

「まずはサラダ場。レシピは…これ。分量は計りに頼らず、手の感覚で」

手の感覚。僕の胸に、ちいさな違和感が灯る。けれど頷く。現場には現場の流儀がある。従うことから始めるのが早い時もある。


ランチが開く。ドアベルの乾いた音と同時に、滑るように注文が流れ込んだ。

「Aランチ二、Bランチ一、カプレーゼ追加!」

パス台の脇で、僕は葉物を冷えたボウルに落とし、オイルを回し、塩を高い位置からふる。レシピ通り――いや、僕の知っている「再現可能なやり方」だ。

「ちょっと待って」隣に立った先輩の声。

「うちは、塩はボウルじゃなくて皿にふる。葉に直接当たると、苦味が立つことがあるから」

なるほど、と返しながら、メモの代わりに動きを覚える。次の皿、次の手順。わずかな差が、ここでは店の味になる。


ピークが過ぎ、ようやく息を吐いた頃、客席の隅で手を振る人がいた。

「さっきのサラダ、すごく美味しかった。ドレッシング、自家製?」

常連らしい穏やかな笑顔。僕は思わず一歩進み出る。

「ありがとうございます。ベースは自家製ですが、もしよければ次回もう少し酸味を強くできます。季節の柑橘も相性が良くて」

言い終えると、店長と目が合った。静かな目に、静かな合図。「ここは厨房。余計な約束は客席でしない」。言葉にはならないけれど、そう聞こえた。


その夜、帰り道のコンビニの灯りの下、僕はスマホのメモに「酸味調整案」と書いた。柑橘の種類、仕入れ先、既存レシピとの干渉。頭の中で設計図が広がると、胸が少し熱くなる。

――休日にでも、柑橘の比率を試してみよう。

そう思った瞬間、別の声が背中を引いた。「口約束は、やがて錘になる」。トレーニング指導をしていた頃、笑顔で交わした小さな「やりましょう」が、休日を飲み込んでいった記憶が、湯気のように蘇る。


翌日。開店前の静かな厨房で、僕は動線を図に起こした。皿の戻り先を一つずらすだけで、歩数が減り、手元の交差が減る。洗い場からサラダ場への渡し台に浅いトレイを一枚足す――落下のリスクが減る。

「店長、少しだけ提案いいですか」

見せると、店長は図を斜めから見て、短く「やってみよう」と言った。

昼のピーク、厨房の流れはわずかに滑らかになった。歩幅が半歩分、軽くなる感覚。

「…悪くない」先輩がぽつりと呟いた。

その言葉は、想像以上に骨に染みた。僕は、誰かのやり方を否定したいわけじゃない。ただ、誰でも回せる仕組みを、整えたかった。それが、昔から僕の癖で、そして、棘でもあった。


休憩の終わり際、先輩が小声で言う。

「なぁ、柚木。昨日、客に何か約束した?」

「いえ、具体的には。次回こうできるって、話はしました」

「ここ、そういうのは店長通す。俺たち、勝手に客と線を結ぶと、現場が引っ張られる」

言い方は厳しいが、怒ってはいない。むしろ心配に近い温度を感じる。

「わかりました。すみません」

謝りながら、胸の奥で小さな歯車が噛み合う音がした。

――仕組みは、人を助ける。けれど、線の結び方を間違えると、人を縛る。


閉店後、洗浄機の唸りが止むと、厨房は急に広くなる。

店長が、さっきの図を持って近づいてきた。

「動線の件、助かった。…ただ、うちは“手の感覚”も大事にしてる。数字で固めすぎると、息が詰まるスタッフもいる」

「はい。僕は、感覚を支えるために数字を使いたいんです。誰が入っても、最低ラインを守れるように」

店長は少しだけ笑った。「君は経営者向きかもしれないな」

冗談めかした声だったが、言葉の芯は、思いのほか重かった。


店を出ると、夜風が油の匂いをさらっていった。

歩道のタイルに、街灯が四角く落ちる。僕はその四角を一枚ずつ踏みながら、心の中で今日の図面を折りたたむ。

仕組みと感情。数字と手の感覚。約束と線引き。

どれも、片方を選べば片方が軋む。

それでも――どこかに、両方が呼吸できる場所があるはずだ。


明日の仕込みは、いつもより少し早く来よう。

塩を皿にふるやり方を、僕の手に覚え込ませるために。

そして、図面の余白に、小さく書き足す。

「誰でもできる、は、誰でも苦しくならない、の始まりであるべきだ」と。


夜の交差点で信号が変わる。

僕は一歩、前へ出た。

新しい厨房のルールを、ただ覚えるだけじゃない。

ここで、折り合いを見つけるために。

そしていつか、この折り合いの先に、僕自身の店の図面を引く日のために。

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