三日目 迷宮探索(二)

第二層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

湿った冷気に腐臭が混じり、足元には薄く黒い靄が這いまわっている。

「黒き瘴気か……」

ニョルドが低く呟いた。

仮面の下から漏れる声には、何か知っているような響きがあった。

トートが杖を掲げて光を放つと、そこに横たわっていたのは先遣隊の死骸だった。

鋼の鎧に身を包んだ騎士たちが無残に折り重なり、胸当てには深い爪痕が走っている。

握りしめた剣は刃こぼれし、盾は粉々に砕け散っていた。

ロンジヌスが膝をついた。

王都で顔見知りだった騎士たちの変わり果てた姿に、聖騎士の瞳が濡れる。

ユーメリナとカサンドラが黙って祈りを捧げる。

「……進むぞ」

アスモダイの低い声が、重苦しい沈黙を破った。


先へ進むと、やがて暗闇の奥に影が揺らめいた。

ゆらりと前に出てきたのは、人のような、しかし明らかに人ではない何かだった。

灰色の肌は所々が爛れ、左腕は異常に肥大している。歩くたびに関節が軋む音を立て、赤く濁った瞳が一行を見据えていた。

「異形……」

トートが呟いた。

ニョルドの足が、一瞬だけ止まった。

「どうした、ニョルド殿」

ヴェルンドが振り返る。

「まさか怖気づいたか?」

「……いや」

仮面の奥から、短い返事。

異形は咆哮を上げて襲いかかってきた。

ロンジヌスが盾を構えて前に出る。

異形の一撃を受け止めると、アスモダイの剣が閃き、ヴェルンドの戦斧が唸りを上げる。

ユーメリナとカサンドラが強化魔法を施す中、ニョルドとトートの魔術が異形を貫いた。

短時間で異形は地に崩れ落ちた。

黒い血が瘴気となって立ち上る。

死骸を調べると、腹部に薄く掠れた紋様が刻まれていた。

古い碑文のような、規則性のある線の集合。

滲んだ何重もの円環の上に、掻きむしったかのような傷が残っている。

カサンドラがその紋様を一瞥し、一瞬だけ表情を強ばらせた。

だが次の瞬間には平静を装い、祈りの言葉を紡いでいる。

その変化を、ロンジヌスが見逃さなかった。

「カサンドラ……」

声をかけようとした時、遠くから地響きのような足音が聞こえてきた。


現れたのは、先ほどより遥かに巨大な怪物だった。

複数の人間の胴体が無理矢理繋ぎ合わされたような体躯。

あちこちから腕が突き出し、それぞれに異なる表情の顔が歪んでいる。

そして、その手には――

「ガルト殿!」

ロンジヌスが叫んだ。

巨大異形は、騎士ガルトの亡骸を弄んでいた。

狂気に満ちた笑い声を響かせている。

「シネナイシネナイシネナイシネナイ……」

異形が人の言葉を発した。

いくつもの歪んだ声が同じ言葉を繰り返し、その不協和音が洞窟に響き渡った。

怒りに燃えるロンジヌスが剣を抜く。

「貴様……」

巨大異形がガルトの亡骸を投げつけてきた。

ロンジヌスは咄嗟に受け止め、そっと地面に横たえる。

だが、それが隙となった。

巨大な拳が振り下ろされる。

盾で受け止めるが、凄まじい衝撃に膝をつく。

石床にひび割れが走り、ロンジヌスの足が深くめり込んだ。

アスモダイとヴェルンド、ニョルドが三方向から攻撃を仕掛ける。

カサンドラがロンジヌスに魔法をかけ、二人は息の合った連携で巨大異形に立ち向かった。


唐突に異形の複数の口が素早く詠唱を始めた。


七つの暗い火球が虚空に浮かび上がり、一斉に英傑たちへ向かって飛翔する。

「これは...知らぬ魔法じゃ」

トートが驚愕の声を上げる。

「みなさん!」

ユーメリナが咄嗟に光の障壁を展開する。

淡い光が七人を包み込んだ瞬間、七つの火球が次々と衝突し、光壁は粉々に砕け散った。

その時、暗闇から、ぬらりと新たな巨大異形が這い出てきた。

同じく醜悪に歪んだ巨大異形だった。

無防備なユーメリナに向かって、その巨大な腕が振り下ろされる。

間一髪で致命傷は避けたものの、風圧に吹き飛ばされ、岩壁に激突した。

口から血を吐き、膝をつくユーメリナ。

「ユーメリナ!」

カサンドラが駆け寄り、治癒の光を注ぐ。

「こっちはワシが引き受ける!そいつを先に片付けよ!」

ヴェルンドが咆哮を上げ、戦斧を構えて新たに現れた異形の前に立ちはだかった。

傷つきながらも、ユーメリナが震える声でドワーフ王に強化魔法をかける。

二体の巨大異形を相手に、英傑たちは死闘を繰り広げた。

ロンジヌスとヴェルンドがそれぞれ一体ずつを引きつけ、他の仲間がロンジヌス側の異形に集中攻撃を仕掛ける。

アスモダイの刃が閃き、ニョルドの精密な魔術、トートの大魔法が次々と炸裂し、一体目が崩れ落ちた。

続いて全員でヴェルンド側の異形に向かう。

ユーメリナとカサンドラの献身的な支援により、激戦の末、二体目の怪物もついに地に沈んだ。

死骸から黒い靄が這い出し、空気を汚染していく。

「ユーメリナ、大丈夫か?」

ロンジヌスが駆け寄る。

「私は大丈夫です」

ユーメリナが青ざめた顔で答える。

「瘴気が治癒魔法の効果を阻害しています」

カサンドラが深刻そうに言った。

「今はまだ効果がありますが、さらに濃くなると完全に無効化される可能性があります」

いつもなら完全に癒えるはずの傷が、まだ痛々しく残っている。


静寂が戻った洞窟で、一行は死骸を調べた。

一体の背中に、もう一体の肩に、同じような紋様があった。

掠れた円環が、幾つも重なっている。

カサンドラはその紋様を見つめ、今度はより深く眉をひそめた。

「人の言葉を発し、魔術を操る……恐らくは古き魔術じゃ」

トートが低く呟く。

重い疑問を胸にさらに奥へと進んだ。

第三層、第四層と、次々に異形を退けながら踏破していく。

そして――第五層を抜けた時、眼前に現れたのは、それまでとは全く異なる光景だった。

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