ウキ釣り男子、恋をする

桜木 菊名

第1話 ウキ釣り男子、恋をする①

 今日は髪がうねると思ったら、外は雨だった。

 僕の会社は、おしゃれパーマには厳しいが、天然パーマには寛容かんようだ。

 ぴょんぴょん跳ねた後ろ髪は諦め、会社へ行く支度をする。

 今日もまた、面倒な一日の始まりだ。




 「おはようございます」

 「ああ、白井しらいさん、おはようございます」

 最近、中途入社してきた森山もりやまさんだ。彼はベテラン技術者らしく、今日も朝から黙々とソースコードを追っている。

 とても頼もしい同僚だ。

 僕は自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、メールを確認する。

 面倒な問い合わせは無し。今日も大きなトラブルなく乗り切れそうだ。

 そう安心したところで僕の所属しているチームのプロジェクトマネージャーから話しかけられた。

 「白井しらい、ちょっといい?

 今日から新人が入ったから挨拶させて」

 プロジェクトマネージャーの長田おさださんの言葉に僕はおやっと思った。こんな時期に珍しい。

 そして、長田さんの後ろを見ると、そこには、ピンクのカーディガンを着た小柄な女性がちょこんと立っていた。

 「本日からこのチームに配属されました、花咲美紅はなさきみくです。よろしくおねがいします」

 ニコッと笑った時に出る笑窪えくぼ、ぺこっと下げた頭から流れ落ちる黒髪。その全てが僕の心を打ち抜いた。

 「よ…よろしく」

 しどろもどろな返事しかできない自分が恨めしい。

 「えっと席は……森山さんの隣が空いてるか」

 長田さんがキョロキョロと辺りを見渡す。

 そして、僕が何か話そうかとまごついているうちに、花咲さんはひらりと隣の島へ行ってしまった。

 「ああ、新人さん?私も最近入社したから同期になるかな?

 君くらいの娘がいるおじさんだけどね」

 ハハハ、と笑いながら、森山さんは花咲さんに色々と話しかけ、花咲さんも楽しそうに答えている。

 冴えない親父かと思っていたが、意外にも女の子慣れしてるようだ。

 花咲さんは、パン屋巡りが趣味で、最近は"もふもふレンジャー"というアプリにハマっていること。

 まるで釣り人が水面に目を凝らすように、僕は彼女の会話に耳をそばだてた。




 翌日、僕はいつもより早く家を出た。

 昨夜は"もふもふレンジャー"という訳の分からないアプリをインストールして、今朝は会社近くのパン屋で昼ごはんを買う。

 そしてそのパン屋の袋をこれ見よがしにデスクへ置いた。


 ……これで準備万端だ。


 僕は釣り人が餌を付けて糸を垂らすように、その時を待った。




 「おはようございます」

 ふわふわした白いセーターを着た花咲さんは今日も変わらず可憐だった。

 デスクに座る直前、ちらっとこちらを見た気がしたが、すぐに僕の同期の爽やか男に話しかけられた。

 「花咲さんは、フットサル興味ある?

 うちの会社にフットサル部あるんだ。

 もし良かったら同期の子達もいるし、おいでよ。

 来週の土曜日に練習があるからさ」

 爽やか男の水野みずのは、下心なんて無いかのように、にこにことフットサル部の楽しさを語る。

 おい、やめろ。僕の釣り場を荒らすな。

 お前みたいなテクニシャンなルアー釣り人が来たら花咲さんが驚くだろう。

 頭の中で僕の勝手な抗議が炸裂する。

 花咲さんは戸惑いながらも、「じゃあ、同期のゆいちゃんがいるなら……」なんて言っている。

 僕はこの瞬間、来週の土曜日に台風が来ることを祈った。

 さっと調べた天気予報は残念ながら晴れだったが。

 だが、仕事が始まれば、僕にもチャンスがあるはず、と気を取り直す。

 しかし、花咲さんはシステムのフロント部分を担当するらしく、DB周りを担当している僕とは接点がない。パンの袋と見られもしないスマホのアプリだけでは、僕のウキが沈むことは無かった。




 釣り糸を垂らして一週間ちょっと。

 そろそろパン生活にも飽きてきたが、ここがふんばり時だ。

 "もふもふレンジャー"で育て始めた熊は僕にたくさん話しかけるようになったけど、花咲さんとは挨拶すらできていない。

 不貞腐れた僕の耳元に、突然、鈴の音が鳴るような声が聞こえた。

 「お疲れ様です。

 あの、画面のテストやってたら、レスポンス?がすごく遅くて……。森山さんから、白井さんに報告した方がいいよって言われて……」

 緊張して強張こわばった顔も可愛い。

 僕の心臓が早鐘を打つように大きく響く。

 「ああ、報告してくれてありがとう。

 こっちで調べとくから、どの動作でダメだったか教えてくれる?」

 僕は口から心臓が飛び出さないように、努めて冷静に答えた。

 隣に座った花咲さんの息遣いを感じる。

 画面を操作しながら僕は急速に不安になった。

 自分が汗臭くないか、マウスに手垢がついてないか、不潔な奴と思われてないか。

 花咲さんが座席に戻った後も、その不安が拭えず、僕は汗拭きシートとアルコールティッシュを買いにコンビニへ駆け込んだ。

 釣り人の基本は魚を怯えさせないこと。

 僕は自分の体とデスク周りを入念に拭き取った。




 「あの、原因は分かりましたか?」

 就業間際に花咲さんがまた話しかけてくれた。

 「うーん。まだ特定は出来てないんだ。

 この画面のテストは後回しにして、明日は違うところから始めてくれる?」

 はい、と素直に頷く花咲さん。それだけで、僕の人事評価はMAXに上がる。

 だが、花咲さんが見つけてくれた事象は厄介だった。

 今日は残業だな、と肩を落とす僕の横を花咲さんがニコリと笑顔で帰っていく。

 いつもは面倒臭いと文句を言うような仕事だったが、僕は必死で原因究明に勤しんだ。




 「あの、昨日の事象が解決したよ。だから、来週からあの画面のテストを再開してくれるかな?」

 次の日の夕方、厄介な事象の原因を突き止めた僕は、話しかける口実が出来たと意気揚々いきようようと花咲さんの座席へ向かった。

 「わあ、すごく早いですね。

 森山さんが来週半ばまでかかるんじゃないかって言ってたので」

 キラキラと尊敬の眼差しで見つめる花咲さん。

それだけで僕の昨日の苦労が報われる。

ニヤニヤ寝癖でうねった頭を掻く僕に、花咲さんが首を傾げながら尋ねた。

 「そう言えば、白井さんってひまわりベーカリー好きなんですか?」

 その何気ない一言に僕は心の中のウキが沈むのを感じた。


 ……アタリだ。


 焦るな、焦るなと言い聞かせて、軽く笑顔を作る。

 「うん。あそこ、朝からやってるからつい買っちゃうんだよね」

 「あ、そうですよね!私も通勤の時に気になっていて。今度行こうと思っているんです」

 ニコッと笑う花咲さんを見て、僕の心臓が跳ね上がる。

 この流れで、一緒に太陽ベーカリーに行こうと誘っても良いのではないか。確かあそこはカフェスペースもあったはず。

 僕が心のリールを巻く準備をしたところで、思わぬ邪魔が入った。

 「美紅ちゃーん!今日、金曜日だから飲みにいこうぜっ!」

 日焼けした肌に快活かいかつな笑顔。花咲さんと同じ新人の大黒岳おおぐろがくがやって来た。

 そして、マグロをもりで一突きに仕留しとめるようなあざやかな手口で飲みに誘うと、花咲さんの手を引いて帰って行った。

 その間、約三十秒。

 しばらく呆然ぼうぜんと立ち尽くした僕は、このやり場のない気持ちをぶつけるため、黙々とキーボードを打つ森山さんに話しかけた。

 「……森山さん。今日一緒に飲みませんか?」

 森山さんは眠たげな目を上げて、一瞬驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。

 「ぜひ、行きましょう」

 満面の笑みを浮かべる森山さんに、怒りに任せて適当に誘った僕は罪悪感にさいなまれた。




 「お疲れ様でーす」

 居酒屋のチェーン店に入り、生ビールで乾杯する。

 「いやあ、白井さんとこうやってちゃんと話すのは初めてだね。

 長田さんや花咲さんとはよく話すんだけどね」

 僕は花咲さんの話題が出たことに舞い上がりながら、慎重に質問する。

 「花咲さんとはよく話すんですか?」

 「うん。花咲さん、こんなおじさんの話でもにこにこ聞いてくれるから。

 私には大学生の娘がいるんだけどね。

 この前、誕生日にあげた鞄の色がベビーピンクじゃなくてチェリーピンクってやつだったって怒られてね。

 最近は花咲さんにも相談に乗ってもらってるんだ。いやー、若い女の子の意見は助かるね」

 そう言って、森山さんはビールのジョッキを飲み干した。

 「ああ。花咲さんそういうの詳しそうですもんね」

 僕は内心ニヤけながらタブレットで追加のビールを注文する。

 「うん。

 あとさ、私も"もふもふレンジャー"ってアプリやってて、花咲さんとフレンドになったんだ」

 そう言って、森山さんはスマホのアプリを見せる。そこにはファンシーな山小屋と畑を耕す熊がいた。


……話をするなら今だ。


 僕は新たな潮の流れを感じ、心の釣竿を投げた。

 「僕も、"もふもふレンジャー"やってるんですよ。フレンド申請をしてもいいですか?」

 言ってから、グラスの水面が波打つくらい、手が震えていた。森山さんは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにニコニコとスマホを差し出してくれた。

 「もちろん。ユーザー名、見せてくれる?」

 僕は震える指でアプリを開き、自分の農園に住む、どこか頼りない熊を表示する。IDを見せると、森山さんはすぐに申請してくれた。

 これで、花咲さんとも繋がれるかもしれない。僕の心の中のウキがピクリ、と揺れた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る