25話 可愛いな。ユーリは。

鳥たちのさえずり、川のせせらぎ。

木々を抜ける風が葉をゆらし、湖の水面に細かな波を描いている。

光の反射が、水面にきらきらと跳ねかえるたび、空と水の境目が、ふっと曖昧になる。

その湖のほとりで、一人の少年が本を読んでいた。


陽の光に透けたまつ毛が、まるで光の羽のようで──…

白い綿のシャツに、藍色のパンツ。

寺院で支給される紺色のサムエではなく、いつも彼は、そんなラフな服装を好んでいた。


風にそよぐそのシャツの裾が、なんだか自由そうで、オレは──いつの間にか、その格好をマネするようになっていた。


「……ソアラ」

そっと名前を呼ぶと、少年はゆっくりと顔をあげた。

その瞳がやさしく細められる。


「ユーリ? どうやってここへ?」

若僧侶ルーイが街にでるって言うから……荷台にのせてもらった」

ほんの少し誇らしげに言ったつもりだったけど、ソアラの目にうっすらと浮かんだ驚きに、胸がぎゅっとなる。

──やっぱり、怒られるかもしれない。


ここは寺院の敷地を抜けた、少し先の場所。

子ども一人で来てはいけない、と何度も言われていた。


「……おこった?」

そう聞くと、ソアラはふっと微笑んだ。

「おこってないよ」

そう微笑んだ口元とは裏腹に、眉の端がわずかに引きしまる。

声はやさしいのに、その瞳の奥がすっと細まり、逃げ道を塞ぐような静けさが漂う。

大きく感情を見せないまま、視線だけでオレを制してくる──。

幼心でも、ソアラを怒らせたらヤバいってことくらいはわかった。


「ユーリ、おいで」

手招きすると同時に、ソアラはオレの手を取った。

あたたかい手のひらが、しっかりと包みこむ。

こうして、ソアラはいつもオレを導いてくれる。

湖の縁へと歩きながら、指先でそっと水面を示す。


「ほら、今日は湖の底が見えるから」

「……うわぁ、きれい……」

オレは思わず息を呑む。

水の奥、さらにそのずっと先──。

ゆれる波間の底に、もう一つの空が広がっているようだった。

青く澄んだその底には、光が静かに沈んでいって、星の瞬きのような砂粒が、ちらちらと漂っている。


「まるで……深海しんかいが見えるみたいだ」

「月が星に近づく日は、湖が空の底をうつすんだ。空と地の境界が、一時だけかさなる日なんだよ」

ソアラの声は、湖面と同じくらいおだやかで、透きとおっている。

オレはそっとその横顔を見つめる。

風が彼の髪をゆらして、頬にかかった光がふわりと踊った。


──ソアラがここにいる気がして、だから、どうしても来たかったんだ。


心の中でそう思いながら、オレは足元の水面を覗きこんだ。

そこには、確かにもう一つの世界が、息をひそめてゆれている。


あの頃のオレは──。

ソアラの姿が見えなくなると、どうしても気になってしまって。

無意識に、探していた記憶がある。

あの日も、そうだった。

午後から、馬に乗る約束をしていた。

ほんの少しの間姿が見えなかっただけなのに、気づけば、寺院の中をぐるぐる探して。

なんでもないはずの時間が、やけに長く感じた。


──会いたかった。


彼が静かにたたずむ姿は、どこか遠くにある星のようで。

いつもやさしく、おだやかで、けれどどこか近づきすぎると壊れてしまいそうで。

オレは、密かに──彼に憧れていた。


幼い頃、孤児として寺院に引き取られたソアラ。

いつも忙しい母上の代わりに、本を読んでくれたり、話し相手になってくれたり。

気づけば、オレの隣にいてくれた。

その時間は、やさししく、あたたかくて、何よりも心地よかった。


「キレイでしょ?ユーリに見せたくて……午後から馬を走らせて連れてこようと思ってたんだよ」

「だって、急にソアラがいなくなるから……」

つい拗ねたように言うと、彼は小さく笑って頭をかいた。

「ごめんごめん。リュシアさまと楽しそうにしてたから──邪魔しないように、こっそり抜けただけだったんだけど」


幼いながらも、オレはその言葉の端々に、何かを感じていた。

母上への遠慮。そして、オレへの距離のようなもの。

やさしくて、近いのに。

どうしても越えられない“何か”が、彼の言葉や所作の中に混じっていた。

ふいに、ソアラが少しだけ真剣な顔をして、口調を変えた。


「ユーリ、約束して?」

「……え?」

「一人で出歩いちゃダメ。特に、ここは寺院の敷地外だ。この道の先──森の奥へ続く道は、危険だから」

その言葉には、今まで聞いたことのないような強さがあった。

「うん、ごめん。約束する」

そう答えながら、胸の奥がざわめいた。


ソアラだけじゃない。

母上も、いつも寺院の敷地の外へ出ることを、強く嫌っていた。

オレはまだ幼くて、その理由までは知らなかったけれど──。

なんとなく、わかっていた気がする。

あの森の向こう。


このくに の、皇帝が暮らす“城”があるということを。

きっと、それに関係している。

誰も言葉にはしなかったけれど、その場所だけが、この静かな日々の中で──唯一、触れてはいけない“影”のようだった。


もう一度、湖の底を、覗き込んだ──その時だった。


水面の美しさに見惚れて、ふと身体が傾く。

ぐらりとバランスを崩しかけた。


ぴしゃん──。


小さな水音が跳ねた瞬間。


背後から、ぐっと力強い腕が伸びてきて、オレの身体をしっかりと抱きとめた。

耳元に感じる、あたたかな息遣い。

ソアラの胸に背中が触れて、彼の匂いと──ふわりと漂う、あのやさしいお香の香りが混ざる。


一瞬の出来事だった。

バランスを崩したオレの身体が、そのまま草の上に仰向けに倒れこむ。

空が、広がっていた。

まっすぐ見あげた先に、逆光を背にしたソアラの顔があって。

その輪郭が、光の中でゆれる。


心臓が、どうしようもなく速くなる。

ソアラの思いがけない腕の強さに、思わず息をのんだ。

「あいかわらず、危なっかしいな」

そう言って、ソアラはゆっくりと微笑んだ。

けれど、その声は冗談めいていなくて──。


「ここは、底なしだから……落ちたら、最期だよ」

静かにそう言うと、オレの髪にそっと指を通して、そのままやさしく岸のほうへと手繰りよせてくれた。


そして──…

ふいに、視線がかさなった。

「……ユーリの瞳は、不思議な色をしているね。光に当たると、まるで印象が変わる。キミの心を映してるみたいで、とても、綺麗だ」

まっすぐに見つめられて、何も言えなかった。

言葉よりも先に、顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。

視線を逸らそうとしても、すぐに戻されて。

ソアラはふっとわらいながら、言った。


「……可愛いな。ユーリは」

「な、なんだよそれ。オレ、男だけど」

からかうような言葉に、思わずくちびるを尖らせて言い返したけれど、でも、嫌じゃなかった。

むしろ、心の奥が、じんわりとあたたかくなっていくのを感じていた。


気を取り直して、ソアラの隣に腰を下ろす。

彼の手には、いつもの分厚い本。

頁をめくる音が、静かな風にとけていく。


「……今日も、難しそうな本を読んでるね?」

そう声をかけると、ソアラは顔をあげてわらった。

「え? そんなことないよ。ユーリには少し早いかもしれないけど──きっと、すぐ読めるようになる」

その言い方が、どこか誇らしげで。


ソアラは、本が好きだった。

母上から譲り受けたという、大切な本を丁寧に扱っていた。

背筋を伸ばして読むその姿が、なんだか少し大人びて見えた。


「……ソアラ、上の学校に進学が決まったって」

ふいに、その話題を口にするとソアラは頷いた。

「うん。秋から──リュシアさまの計らいで、通えることになったんだ…」

そう言って、手の中の本をそっと閉じる。

その仕草だけで、なんだか胸の奥がざわついた。


──ソアラが、寺院ここを離れる。

それを想像しただけで、言いようのない寂しさがこみあげてきた。

気づけば、そのまま、ぽつりとつぶやいてしまった。

「……なんか、さみしい、かも」

ソアラは少しだけ目を細めて、でもすぐにやわらかく微笑んだ。


「将来ね、教師になりたいと思ってるんだ」

「……教師?」

「うん。リュシア様の思想を、もっと広めていくために。そのためには、ちゃんと学ばなくちゃいけない」

そっか。ソアラが、教師に。

……似合うかもしれない。

話すのもうまいし、説明もわかりやすい。

きっと、人気者の先生になる。

それでも、不安は消えなかった。


「ねえ、上の学校に行っても──ここには、帰ってきてくれる?」

思わず、問いかけるような声になっていた。

ソアラは少し驚いたように瞬きしてから、ふっとわらった。

「え? 帰るよ。ここは、僕の家でもあるんだから」

その笑顔に、少しだけ心がゆるむ。


けれど、オレがまだ不満げな顔をしているのに気づくと、ソアラは首を傾けて聞いてきた。

「……心配になった?」

コクリ、と小さく頷いた。

その仕草に、ソアラは少し黙って、やわらかく目をほそめる。

「大丈夫──僕は、必ずユーリを──」

ふいに言葉が止まる。

ほんの一瞬、何かを迷うように視線を落とし──。


「……必ず、ユーリに会いに来るよ」


そう、言い直したような気がした。

でも、そのあと浮かべた満面の笑顔があたたかくて、オレは、もう何も聞き返すことができなかった。

胸の奥が、じんわりと少しだけ、痛んだ──。

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