18話 ソアラ…そんなことないよな?

「そうだ。母を求める幼い心と、ソアラの中の残響が共鳴する。ソアラもまた、リュシアの残響に導かれてお前を愛す。互いが強く惹かれあえば、私への忠誠心は絶対となる。お前の調律もまた、やりやすくなるだろう」


……そんな、バカな。

ソアラも、オレも。皇帝にとっては、王という器を調律するための“道具”でしかないってことか?


「所詮、残響なぞ、人の心に残った声の言霊こだまにすぎん。理性の塔は、その言霊を押し殺す檻だ」


皇帝の言葉が胸を突き刺す。

心臓が掴まれたみたいに、呼吸が止まりそうだ。

苦しい──。


「愚かな者よ。そんな幻に縋って“愛”などと叫ぶとは──。お前が感じたそのぬくもりも、眼差しも、すべては母の面影をなぞらせた幻影にすぎぬのだよ、なぁ?ユリウス」

ソアラが……母上の残響に? じゃあ、あのぬくもりも……目の奥のやさしさも、全部“母の気配”をなぞっていただけっていうのか?


嘘だ、うそ……っ。

だって、あの日、くちびるをかさねたあの感触だけは……

本物だったと──。


その傍らで脳裏に浮かぶ光景。

散らかった部屋を静かにかたづけるのも、角砂糖の好みも、人形の綻びを縫いあわせるのも───。

オレは、ふるえる身体でソアラを見た。

けれど、ソアラは何も言わない。

ただ、冷たい目でオレを見ているだけだった。


……だめだ。

皇帝の挑発に乗っちゃいけない。


感情に飲まれたら──それこそ、皇帝の思うつぼだ。

そう思っても、視線の先のソアラの無表情が感情の塔をぐらりとゆらす。

頭の奥に、ふいに彼の声がよみがえった。


『人の心は、風と似ています。乱れた時は、こう祈るのです──“いま在る怒りよ、風に乗りて遠くへ去れ。新しき空気よ、我が胸に静けさを運べ”それが、古くから伝わる“呼吸のまじない”です』


──あの時、オレは、感情に振りまわされてばかりの自分が嫌で、無表情で何ひとつ乱されないインフィニタスたちが、少しだけ羨ましく思えた。


感情を持つことすら欠陥なんじゃないかって──。

ソアラに八つ当たりのようにぶつけてしまったことがある。


それでも彼は、ただ静かにそう言ってくれた。

でも、今のオレには──その“まじない”さえ、届かない。


もう、だめだ。

オレ……感情に流されてしまう。


「ソアラ……だって、オレたち──」

あんなにやさしく抱きしめてくれて。

あんなに、深く、くちびるを重ねて。


あの日、あの強引なキスは?


ソアラとのキスは何故かオレの心を満たして、波を整え──乱れた心を鎮めるみたいに。それはつまり…。


調律──。


心の奥底が冷えてくる。身体がゾワゾワと嫌悪感が漂う。

得体のしれないふるえが止まらない。


オレはふるえる眼差しでソアラをもう一度見る。

無表情なソアラ──…オレを同情の眼差しで見据えているのか、それともその奥に愛情が眠っているのか。


応えてほしい──あなたの心をオレに見せて。

頭の中で混乱が駆けまわる。


「ねぇソアラ…そんなことないよな?」

「……」


つぎの瞬間、パシッと、空気を裂く音がひびいた。

気づけば、オレの手が、ソアラの頬を打っていた。

ひりつく掌。

頬に赤く滲む指の痕。

それでも、ソアラは表情一つ変えない。


──ここまでしても何も応えてくれない?

オレの想いは、そんなに軽いのか?


ダメだ。ソアラへの想いがこのままだと怒りに変わる。

心が決壊しそうだ──。


気づけば、ソアラの腰の短剣に手をかけていた。

あの夜、貸してくれた蒼い短剣。


いつかの夜、騎士に憧れていると恥ずかしげに語ったオレに、ソアラが貸してくれたあの短剣。

自分でも驚くほどの速さで、それを抜き、そしてそのままソアラを押し倒し、馬乗りになり、刃先を真っ直ぐにおろし彼の胸元へ。

──寸前で刃が止まる。


ソアラが本気を出せば、オレのこんな非力な動き、いとも簡単にいなせるはずなのに、ソアラはただ無抵抗のまま。

なんだよ。

なんで止めないんだよ?

それじゃあ、まるで──…。


「ソアラ……嘘だろ?黙ってないで応えろよ!これはオレからの命令だ!」

お願いだ。応えて!

オレに感情をむき出して。


涙がこぼれた。

一粒、また、一粒、大粒の雫が、ソアラの頬におちて、まるで彼まで泣いているかのように見えた。


短剣を抜いた時、手首を切ったのだろうか。

血が、刃先を伝ってソアラの頬に滴り落ちた。

痛みはない。だが、想像以上に出血している。


「……応えてくれよ。何でもいいんだ。たとえ傷つく言葉でも、嘘でもいい……言い訳でも……お願いだから、何か言って……」


──オレの存在を、見て。


「ほら、いつもみたいに計ってくれよ。苛立も、不貞腐れも、落ち込みも──、

あと何分で消えるか、当ててくれただろ?」

今のオレは、もうどうしょうもなく、感情がダダもれだ。

ぐちゃぐちゃで、壊れそうで。


ねぇ、ソアラ……宥めてくれよ。

あの時みたいに、「あと少しで落ち着きます」って、わらってくれよ──。


「お願いだから…こたえろよ…」

……けれど、返事はない。


ただ、黙ってオレの瞳を見つめるだけで。

その沈黙は、刃よりも冷たくて。

まるでオレの心を測ることすら、諦めたみたいに──。

黙っているその顔が、憎しみに変わりそうになる。それが、何よりもこわかった。


愛されたいだけじゃない。

ただ、“ここにいる”と、認めて欲しいんだ。

生きてるって。

心の奥にこびりついた、孤独の爆発。


ずっと、命令でしか応えてくれなかったソアラ。

何を言っても無反応で、何をしても動じない。

どんなに言葉を重ねても──「オレの言葉は、届いてる?」って問いが、どうしようもなく、重くのしかかっていた。


何ひとつ響かない世界で生きていることへの、絶望感。

たとえ、冷たい言葉でもいい。ソアラが、何か一言と返してくれたなら──。

オレは、それだけで救われるんだ。


インフィニタスたちが剣を抜き、オレを取り囲む。


わかってる。

今オレがしてるのは──。

主従関係を踏みにじり、階級の頂に立つへ剣を向けるという重大な反逆行為。

インフィニタスたちが、ここでオレを処刑したとしても……文句は言えない。  


「……弱いな。まだ情に流されるとは」

オレの逆立った感情とは裏腹に落ちついて、波さえない冷たい言葉が降りてくる。


「忘れるな、ユリウス。お前とソアラの関係は、王座を継がせるために“最適化”されたものだ。“兄弟”という形にしたのも、タワーをお前の傍に縛りつける為──お前が“愛”だと信じているものすら、契約とことわり、仕組まれた関係なのだ。


…揺れず、乱れず、従わせること。それこそが王の器。……迷いに溺れる者は意志で制せ。感情を──見せるな。さあ、完成させろ」


「──ふざけるな‼︎」


“兄弟”なんて呼ばれて、照れくさくて──気持ちを返すのことすらうまくできなかった。

それでも……どこかで、あの時間が嬉しかったんだ。

……少しだけでも、信じていたかった。

その一言で、オレの“感情の塔”は、静かに──けれど確実に、崩れはじめた。

もう、止まらなかった。


……そういえば、オレ。

あのとき、あいつに何も言えなかったな。

社交界で同級生のマシルに嫌味を言われても、ただ黙っていた。


でも──今はちがう。

たとえ全員を敵にまわしたって、この気持ちだけは、もう閉じこめておけない。


そのとき。

ソアラの手が、一瞬だけ強く──。

まるで意思を宿すように、オレの手を握りかえした。

無言のまま、彼の手が訴える。


行くな──と。


そんな声が、言葉ではなく、手のひら直接流れ込んできた気がした。

でも、もう止まれない。

それがどれだけやさしい手でも。

ぬくもりが、何かを語っていたとしても。


オレは、その手を振り払って──皇帝に短剣を向けた。

瞬時に、インフィニタスたちが剣を構えオレを制止する。

その反動であっという間にオレは床に倒れた。

オレの周りに、四人の剣先が突き刺さる寸前でピタリととまる。


寝坊して話半分も聞かないオレに、規則というものの本質を根気強く教えてくれたゼノ。


何十回も帝王学を丁寧に教導してくれたリヴィア。


規律を静かに調律していたエルディア。


軽口叩きながらもなんだかんだ場を和ませてくれたシオンさえも。


この部屋にいる誰一人として、オレを見ていない。

無機質な仮面を被って、ただ命令に従う“人形”がそこにあるだけだ。


ソアラでさえも。


オレだけだったんだ──。

心が、少しでも通っていたと──そう思いこんでいたのは。

オレの叫びは止まらない。


「勝手なこと言うな! 人の心を、なんだと思ってるんだ!そんなふうにしか人を操れないのかよ!? それでも王か!? 人間かよ!? ……オレの!父親かよ!!」


叫びと同時に、感情の塔は音を立てて完全に崩れ堕ちた。

冷たい石畳に顔を伏せたまま、込みあげるものを押し殺す。

滲む視界に落ちる涙は、悔しさか、悲しみか──それすら判別できない。

ただ、すべてを失った者のように、大粒の雫が止めどなく零れおちる。


「忘れるな、ユリウス。ソアラは王座を継がせるための、お前を調律する傀儡かいらいだということを。──お前に触れた指も、笑った顔も…全部、最初から用意されたもの」

皇帝の無残な言葉がオレを刺す。


「ソアラ。ユリウスを自室にに連れて行き、なだめろ。調律しろ。お前の色に染めあげ、二度と逆らえぬよう、絶対の服従心を植え付けるのだ。今度こそ器を完成させろ──」


皇帝は扇子の先で空気を払うようにひと振りした。

声は淡く、その口調にゆるぎはない。

「……これ以上、私の慈悲を裏切るのなら──塔ごと焼きすてる。お前たち兄弟もろとも、だ」

そう吐き捨てて、皇帝は背を向けた。


その時、ソアラの瞳が、はじめてゆれる。

氷のように凍りついていた双眸に、微かな波紋が走るように。


命令を認識したソアラは、剣を構えたままのインフィニタスたちを無言で制し、そして、オレを──そっと抱きしめた。

「やめろ!! 触るな!!」

今、ソアラに触れられたら……赦せなくなる。何もかも。

愛したことさえ──。


あまりの興奮で、オレの意識はそのまま遠のいた。

最後に覚えているのは、ソアラの腕に抱かれたやさしい感触だけ──。


……どこまでが夢で、どこからが現実だったんだろう。

やわらかな声と、ふるえるようなぬくもりだけがまだ胸に残ってる。

けれど、それは同時に───残酷な現実でもあった。

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