第三章/血塗られた陰謀 4

 悪夢から目覚めたレセナは、身体中が汗でべっとりと湿っているのを感じた。脳裏にまだ、金色の衣を纏った死神の残像が焼き付いている。血と腐臭にまみれた化け物が、空洞の眼窩でこちらを見つめていた。


「うぁ、っ!」


 顔に触れた手に滴る汗を感じ、慌ててそれを拭う。身体のあちこちが粘ついて酷く気持ちが悪い。すぐに風呂にでも入らなければ気が狂ってしまいそうだ。


「レナ、気づいたか」


 ヴォルトの顔がすぐ側にあった。心配そうに伸ばされる手から、レセナは反射的に身体を逸らした。己の身体が汚らわしく思えたのだ。


「感覚の逆流。ストラストの思念を再現なく拾った影響がまだ残っているんだろう。福音伝達者特有の症状だ」


 部屋の角で佇んでいたロザリロンドが辟易したように言い放つ。


「仮にも特位なのだから、少しは感覚の使い方を練習しておくべきだ。これでは役に立たない。とんだ時間の無駄だ」


「何ですって……?」


 嘔吐感の拭えない肺を絞るように、レセナはロザリロンドに視線を注ぐ。


 ロザリロンドの冷ややかな目が返ってくる。


「聞こえなかったか? ならばもう一度言っておこう。お前は能無しだ。己の価値を見定められず右往左往されるのは迷惑だ。倒れるのなら墓場でやれ」


 これが国の言うことかと、レセナの頭に血が昇る。だが、ロザリロンドの言うことは至極当然なのだ。膨大な税金を投じ、好き勝手生きる子どもを守る。だというのに肝心なときに役に立たない。多分、逆の立場になればレセナも苛立つ。


 それでも、他人からわがままと言われようとこの決意は安くない。レセナは、家族と生きたいから福音伝達者にはなりたくないのだ。たとえ理由すらヴォルトに預けていても、この決意は唯一残った大事な羅針盤だ。


 親の仇に対するよう睨み合う二人に、ヴォルトが口を挟む。


「もうやめろ。ロザリロンド、あんたも子どもじゃないんだからその辺にしてくれないか?」


「子どもに教育するのは大人の役目だろう。それができぬ奴がしゃしゃり出るな」


 ヴォルトの表情に亀裂が走る。


「それは俺の事を言っているのか?」


「他に誰がいる。人は皆、神より与えられた使命がある。人はそれを抱き、指針にして世を生きる。それが人という生命の在り方だからだ。だが、これを外れれば人は人の枠から外れる。いまのこいつがそれだ。お前が兄代わりというなら、責任の一端はあるだろう?」


 顔を歪めたヴォルトが押し黙る。ローザンヌ修道騎士会という、苛烈な職務に身を投げ出すロザリロンドの言葉は、ふらついた足取りのレセナには辛辣だ。


「この際だ、ひとつ言っておこうか」


 次の瞬間、ロザリロンドから表情が吹き飛んだ。


「あまり国を舐めるな。貴様らを我々の好きに操るなど造作も無い。あえて無駄金を弄し、貴様らがいまを生きていられるのは国の慈悲だと思え。無能が国家機関にいれば一秒毎に無駄金が費やされる。我々は失敗を許されん。我々はその地位に見合う働きをせねばならん。それが国に忠誠を誓った者の然るべき姿だ。我々の双肩に乗る重みをその足りない小さな頭で理解しろ」


 ロザリロンドがえぐるような視線をヴォルトに投げる。口には嘲笑がにじむ。


「なあ、無能者」


 ヴォルトが息を呑む。


 施術を扱えない人間は”無能”と罵られ、蔑まれる。ヴォルトは、その天才的な剣の才能によりアレラル有数の教育機関である聖堂学院に入学したが、施術を扱えないというだけで無能のそしりを受け続けた。


 それは、レセナには一生理解し得ない、身を蝕む煉獄の苦しみだった。


 だから、その言葉はレセナには看過できなかった。


「ロザリロンド!」


 重い身体を叩き起こしたレセナがその場で跳ね起きる。怒りが身体中を駆け巡った。


「ヴォルトを侮辱するな!」


 レセナの怒号と共に、施術が発動した。青白い輝きが宙に舞い、それが瞬く間に無数の針へと変化する。その数、実に百二十余。すべてが城壁すら軽く貫く凶悪な針である。


 高位施術士すら慄くその妙技に、ロザリロンドが感嘆の笑みを浮かべる。


 レセナが叫びながら腕を振りかぶる。


 寸前、レセナの視界が一気に落ちた。額に鈍痛が走る。目の前には真紅の絨毯。いつ動いたかも分からぬロザリロンドに後頭部を掴まれ、床に叩きつけられたのだ。


 痛みで集中力が途切れ、施術が霧散する。倒れたレセナの背にロザリロンドが体重をかけ、関節を極めながら講釈を始めた。


「才はある。数も認めよう。威力のほどは十二分。施術の選択という点では、まあ微妙だがぎりぎり及第点としよう」


 ロザリロンドの声は、まるで師匠が弟子を評価するように冷静だった。


「だが零点だ。発動から展開が遅い。展開場所は最悪。制御力も甘い。感情的で組み立てがなく、戦術の欠片もない」


 容赦のない指摘が続く。


「その程度の速度で、この至近で施術を選択したことがまず愚か。何より、この私に挑むなど半世紀早い」


 ロザリロンドがレセナの髪の毛を掴んで顔を無理やり上げさせ、無表情を近づける。赤い唇が半弧を描く。


「あまり自惚れるなよ、元研究者」


 レセナの頭を乱暴に離したロザリロンドが、肩にかかった二又の髪を払い吐息。


 風が鳴った。


 レセナが見上げると、ロザリロンドの首筋に抜き身の剣が触れていた。ヴォルトだ。剣を抜く動作はおろか、そのそぶりすらレセナの知覚ではまともに拾うことができなかった。


 一瞬の出来事だった。


 昔から剣の才能があり、努力をしていたことは知っていたが、これほどまで凄まじいとは思わなかった。


「さすがは王立騎士団随一の剣術家。位階は最下級のようだが、その筋は目を見張るものがあるな」


 生と死の境界にいるはずのロザリロンドが、一切の恐怖や動揺も見せずに軽い口調で続ける。


「足捌きに抜剣速度、斬り込みに最適化された身体運び、悪くない。その歳で隙の拾い方は驚愕に値する。剣だけで言えばうちのフェリクスに迫るか。お前には及第点をくれてやろう。そして――そこで止めたのは懸命だ」


 剣を構えるヴォルトの額には苦い汗があった。ヴォルトの首、太股、手首に極限まで張り詰めた線が触れていた。ロザリロンドが生み出した糸がことごとく急所を捕らえていたのだ。剣とロザリロンドの隙間に紫電が走る。


 たとえ剣を振りぬかれても、ロザリロンドは即座に死地を逃れられる。総合力でロザリロンドはふたりの力量を軽く凌駕していた。


 これがアレラルが誇る最強の護衛集団ローザンヌ修道騎士会かと、レセナは怒りも忘れて放心する。


「力関係は分かったろう? あまり私の手間を取らせるな」


 破壊音が鳴り、ヴォルトの眼前の空気が破裂する。ヴォルトが剣を引いて飛び退いた。間合いの開いたロザリロンドが糸を消し、今度こそ立ち上がって首をさする。扉の取っ手に手を掛けたロザリロンドが振り向かずに告げる。


「すぐ動く。今度は精々働け」


 これが意識の違いだというように、音を立てて扉が閉まる。


 散らばった意識をかき集めて、レセナは起き上がった。全身にこびり付いていた不快感は消えていたが、新たな屈辱感が胸を締め付ける。


 所詮、社会に生かされている側の人間なのだと――現実を不服とし駄々をこねる頭でも理解せずにはいられなかった。

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