第三章/血塗られた陰謀 3

 ストラストは翡翠色に輝く森と無数の湖沼に抱かれた美しい地域だった。神が悪戯に大地を掬ったように点々とする大小様々な湖沼群が、自然と人が織りなす独特な魅力を生み出している。


「色に恋するストラストとは言ったものだな」


 湖沼群を望みながら、ヴォルトが感嘆のため息を漏らす。湖面を揺らす風の音が全身を包み、自然の息吹を感じさせた。


 だが、レセナは景観に目をやることもなく、頭を押さえて疼く痛みに耐えていた。怒りや悲しみ、恐怖といった負の怨嗟が、街の雰囲気に似合わないほど黒々ととぐろを巻いて漂っているように見えるのだ。


 福音伝達者の”感覚”が、この土地に染み付いた死の記憶を拾い始めていた。


 心なしか、街の中に人の姿は殆ど見受けられない。復興を果たしたとて、十年前の事件が未だ根強く意識に残っているように、いたるところに死の空気が染込んでいる。


 まるで人類の墓場。それ以外の言葉が、レセナには思いつかない。


 十年前、この美しい街で酷死天使が解き放たれた。小さな町の住人たちを襲い、一人の少年を残してすべての生き物が殺し尽くされた。その唯一の生存者も、後に精神を病み自らの命を絶った。


 十年の歳月を掛けてようやく復興を果たしたこの町で、再び事件が発生したのは一体何の因果か。呪われているとしか思えないほど大量の人命が失われたこの場所は、福音伝達者にとっては感覚するだけで地獄だ。


 卒倒しそうな身体をレセナはぎりぎりで踏ん張る。吐き気を催して口元を手で覆った。涙が溢れ視界がまだらに濡れる。


「おい、大丈夫か?」


 異変に気づいたヴォルトがレセナの身体を支える。


 助けて――と、救いを求める幼子の声を聞いた気がした。


 福音伝達者としての感覚が、街に眠る死者の無念を無作為に拾い始める。情景が頭に浮かび、惨劇が広がる。


 十年前。ストラスト研究所で産声を上げた酷死天使は、風に乗って瞬く間に街の住人に牙を向いた。


 最初は研究所付近を散歩していた男性だった。悪魔とも知らず金色の輝きに見とれ、手に触れたその瞬間、男性の身体に異変が起きた。体内に侵入した悪魔が内側から破壊していく。風に乗って悪魔が征く。ゆらゆらと漂う悪魔は道行く人に手を掛け、僅か一時間で街の半分を死の世界に変える。


 その頃になると街のあちこちから悲鳴が上がり始めていた。疫病に冒された人々が街に現れ、数少ない生存者へと迫っていく。


 少女がいた。緑豊かな公園で一人遊んでいた癖っ毛の少女が、遠くに光る金色を見つけた。そして、そのすぐ側に変わり果てた人間の行列を見たとき、少女はあまりの恐怖で泣き叫んだ。


 まるで悪夢のような光景だった。


 死の行軍だ。病に冒された人々の列は、まるで死の谷の底から現れたかのようだった。少女は無間地獄に落とされたような恐怖を感じた。


 金色の悪魔が少女を追う。勘の良い少女は、それが禍々しい存在であることを直感で理解した。


「お父さん! お父さん!」


 父の名を叫びながら少女が逃げる。ただひたすらに逃げる。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、小さな足で必死に逃げる。背後から慟哭が合唱し、少女の心を未曾有の恐怖で縛る。


「おどぉさぁぁん!」


 少女がすれ違った主婦が悪魔に襲われる。主婦が苦しみながら倒れていく。


 絶叫。この世を呪うように少女が叫ぶ。死が波濤となって追いかけてくる。必死になって走る少女が、地面の亀裂に足を取られて転んだ。すぐ足元まで死の疫病が差し迫る。


「おどぉさぁぁん! 助けて! 助けて!」


 助けを請う少女の嘆きを疫病が攫っていく。


「おどぉぉぉぉさぁぁぁぁん!」


 視界が夥しい数の金色に覆い尽くされる。


「――あっ、が……っ!」


 息が詰まったような己の声で、レセナの意識が戻った。視界が上下に揺れている。少しして、自分の身体が酷く震えていることに気づいた。


「おい、レナ! 大丈夫か? ロザリロンド! 一度戻るぞ!」


 ヴォルトの焦った声が聞こえる。大丈夫と開こうとした口がむせる。十年前と現在の光景が重なり合い、酷い酩酊感が頭の中を駆け巡る。


 少女の叫び声が頭にこびり付いて離れない。嘆きが、恐怖が、苦しみが、痛みが、十年の時を経て身体に蘇り、レセナに襲い掛かる。


「――っか、あっ……うぁ」


 呼吸がうまくできない。あの日の犠牲者もきっとそうだった。体内に取り込まれた酷死天使により、短時間で命を奪われるのだ。


 人間らしく死ぬことすら許さない疫病に殺される苦しみは、一体いかばかりか。想像すら絶する。


 身体が浮く。すぐ近くにヴォルトの顔があった。


「おい、しっかりしろレナ!」


 声が出ない。本当に喉が潰れてしまったように、間の抜けた息だけがひゅーひゅーと漏れる。視界が明滅し、意識が薄くなっていく。


 苦しい、痛い、助けて――。


 十年前の犠牲者たちと同じ苦しみが、レセナの身体を蝕んでいく。まるで酷死天使に感染したかのように。


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