第22話 勇者の墓場

 神殿の奥、壁一面に描かれたの壁画。

 あの異様な光景を目の当たりにした俺とラミアは、ほとんど反射的に踵を返した。説明を求めるよりも早く、本能が警鐘を鳴らしていた。

 ここにいてはならない、と。


 こんな場所に長居できるはずがない。背筋に冷たい汗が流れ、呼吸は浅く速まる。ただ逃げ出したいという焦燥だけが、俺の体を突き動かしていた。


「ルーカス、足を止めるな」


 ラミアの声は低く鋭い。彼女の黄金の瞳は強い警戒心に燃え、この異様な空間そのものに敵意を向けていた。

 俺たちは来た時とは違う、薄暗い回廊を出口に向かってひた走る。だが、その先に待ち構えていたのは、希望の光ではなかった。


 複数の神官たちが、まるで壁のように道を塞いでいた。

 全員が感情のない無表情で、俺たちが神殿に入った時に見たのと同じ、清廉な白い法衣をまとっている。

 だが、その口元から途切れることなく零れ続ける祈りの言葉は、聖歌というより呪詛に近く、同じ旋律が不気味に重なり合って周囲の空気を歪めていた。


 その白の集団の中心に、一点だけ、異質な黒が混じっている。

 その姿を見て、俺は息を呑んだ。


「……お前……!」


 数日前に荒野で戦った、あの謎の神官。漆黒の法衣を纏い、ただ一人で俺とラミアを圧倒した男が、そこにいた。

 彼はゆっくりとフードを外し、あの時と同じ、全てを見透かすような冷ややかな瞳で俺を見つめる。


「勇者ルーカス。ようこそ、神の御許へ」


 背筋が凍った。あの時の絶望的な力の差を、俺の体は覚えている。剣を交えるまでもなく理解させられた、絶対的な格上。ラミアと二人がかりですら、逃げ出すのがやっとだった相手。

 ――逃げられない。


 白い神官たちが一歩も退かず、じわじわと間合いを詰めてくる。その動きは個々人ではなく、まるで一つの巨大な生き物の一部であるかのように統率が取れていた。


 ラミアが忌々しげに舌打ちをした。


「厄介な奴らめ。無理矢理にでも突破するか?」


「無理だ……。こいつら相手じゃ、勝てるわけがない」


 その言葉は、俺自身をさらに追い詰める。拳が震え、喉がひりついた。


 その時、漆黒の神官が淡々と告げた。


「勇者よ、神はそなたを拒んではおられぬ。異物であれ、物語シナリオを正す意思がある限り、神の御元へ導かれよう」


 神の言葉。

 夢の中で聞いた、あの声が脳裏に蘇る。

 ――異物を削除し、正しい物語シナリオを守ることこそが神聖な役割。


 俺は迷った。

 逃げ出したい気持ちと、抗えない現実。その狭間で、俺は神が差し伸べてきた蜘蛛の糸に、縋るしかなかった。


「……わかった。俺は、神託に従う」


 自分でも信じられないほど、素直にそう答えていた。


 ラミアが訝しげに俺を睨む。


「ルーカス……!」


「大丈夫だ。ここで無駄死にするよりマシだろ。俺たちが終われば、何もかも確かめられなくなる。だったら……従うしかない」


 ラミアは不満げに唸ったが、それ以上は何も言わなかった。


 神官たちは頷き、俺たちを神殿の中央、巨大な扉の前へと導いた。

 

 そこは、広大な祈りの間だった。

 どこまでも高い天井からは、無数の燭台がシャンデリアのように吊り下げられ、規則正しく揺らめいている。だが、その荘厳な空間の中央、祭壇があるべき場所に飾られていたのは聖なる像ではなく――壁一面を埋め尽くす、無数の棺だった。


「……これは」


 俺は息を呑んだ。


 ガラスのように透明な蓋を持つ棺が、ずらりと並んでいる。その一つ一つに、人の亡骸が、まるで眠るかのように安置されていた。

 そして、俺はその一人一人の顔に、見覚えがあった。


 彼らはみな、俺に似ていた。

 髪の色、顔の造作、体格……細部は微妙に違う。ある者は傷だらけで、ある者は安らかな顔をしていた。だが、一目でわかる。

 ――彼らは全員、|なのだ。


 ここに存在するのは、「勇者」たちの成れの果て。その一角にはアレンを名乗った男の姿もあった。


 足が震え、立っていられなくなる。吐き気がこみ上げ、視界が歪んだ。


「なんで……こんなことが……」


 俺の掠れた声に、漆黒の神官が静かに答えた。


「勇者とは、常に物語シナリオに必要な存在です。しかし、すべてが成功するわけではない。戦いに敗れ、物語シナリオに適合できなかった者たちは、こうしてここに安置されるのです」


 淡々とした口調だった。まるで道端の石ころでも説明するかのように。


「“失敗した勇者”たちです。神は彼らの魂を回収し、次なる器へと注ぎ込む。ゆえに、彼らの死は無駄ではありません。失敗の積み重ねこそが、物語シナリオを正しき道へと導くのです」


 俺は、その場に膝から崩れ落ちそうになった。

 失敗した、勇者。

 俺も、その一人にすぎないのか。


 脳裏に、強烈な既視感と共に、ある記憶が甦る。

 

 ――ゲームをプレイしていた、俺自身の記憶。

 モニターの前で、コントローラーを握りしめていた俺。

 ルーカスが死ぬたびに、何も感じずに「リセット」を押した。勇者は何度も蘇り、効率化のために同じ場面をやり直した。

 失敗すれば、消される。やり直せば、前の命は、まるでなかったことになる。


 目の前の光景は、その延長線上だった。

 ここに眠るのは、俺が、そして俺以外の誰かが見捨ててきた、無数の「リセットされたルーカス」たち。俺と同じ存在。だが「失敗」として片付けられ、二度と目覚めることのない勇者たち。


「……俺も……」


 喉が詰まり、言葉にならない。


「俺も、使い捨てられるために、ここに呼ばれたのか……?」


 神官は、そんな俺を見て、初めて微笑んだ。だが、その笑みには一片の温もりもなかった。


「勇者よ、神は決して無意味な存在をお創りにはなりません。そなたもまた、必要とされているのです。――たとえ、失敗に終わろうとも」


 ――必要とされている。

 その言葉は慰めではなく、冷たい鎖だった。俺という存在を縛り付け、抗う気力すら根こそぎ削いでいく。


 その時、ラミアが俺の腕を掴んだ。力強いその手に、俺はかろうじて立っていられた。


「ルーカス、惑わされるな。そなたは駒ではない」


「……でも、俺は……」


「駒であることを選ぶのは容易い。だが、駒のまま死ぬのもまた、容易いぞ」


 彼女の言葉は鋭く突き刺さった。

 だが、今の俺にその言葉の意味を噛みしめる力は残っていなかった。

 ただ、目の前に広がる無数の“俺の死”が、俺という存在そのものを、静かに食い潰していく。

 

 俺は、駒なのだ。

 そして、もうすぐこの墓場に並ぶ、次の一体に過ぎない。


 震える胸の奥で、怒りも、恐怖も、すでに形を失っていた。

 あるのはただ、圧倒的なまでの、諦念だけだった。

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