緋い画布─カンバス─

森崇寿乃

第一話 緋色の聖餐

蜜を啜る蝶の羽音。それはその蜜腺の在り処を探るように、私の肌をなぞる。私のからだの奥深くには、誰にも知られぬ炎が棲んでいる。それは、私という存在そのものを祭壇で燃え上がらせるための衝動。どこまでも熱く、どこまでも飢えた、神聖な病。決して誰にも見せてはならない、私だけの聖域。

朝、磨かれた鏡の冷たい面に映る私は、糊のきいた制服に身を包んだ、ごく平凡な少女のかんばせをしている。けれど、その瞳の奥、硝子玉のような虹彩の裏側で、緋色のほむらが揺らめいていることを、私だけは知っていた。

私の名は小夜。五月の光が教室に満ち、空気中の微塵を金色こんじきの胞子のようにきらめかせる。世界はこんなにも睡るように静かで、穏やかなのに、私の内側は嵐が吹き荒れている。教師の単調な声も、友人たちの水晶が砕けるような笑い声も、すべては遠い水底から響く幻聴のよう。この穏やかさこそが、私をこの場所に縛り付ける甘美な鎖なのだと、心の底から憎んでいた。

放課後、私は吸い寄せられるように美術室の扉を開けた。古い木の匂い、乾いた絵の具の鉱物的な香り、そして微かな油の匂いが混じり合った、聖別された空気が私を抱きしめる。ここにいるのは私と、もう一人。けれど彼はいつも、石膏像を前に木炭を滑らせる音を立てるだけで、私という存在などないかのように、その世界に没頭している。おかげでこの部屋は、私の魂を裸にし、聖餐を執り行うための完璧な密室となった。

イーゼルに立てかけた純白のキャンバス。それは汚れなき生贄。私はそこに、心の奥底で燃え盛る炎を、その身悶えるほどの熱を、描きつけなければならなかった。

パレットに絞り出す、鮮血のような緋色。私の情熱の色。狂おしいほどの渇望と、抑えきれぬ官能。絵筆を画布に走らせるたび、体内の炎が歓喜に打ち震え、私の身体そのものが楽器となり、その弦が激しく掻き鳴らされているかのようだった。

描いているのは夕焼けの空。しかしそれは、誰もが見るような感傷的な空ではない。雲は苦悶するように渦を巻き、天を引き裂くように燃え上がり、その向こうにはどこまでも深い、奈落のような夜の闇が口を開けている。私の内なる宇宙、そのものだ。

その日、私の絵は完成しなかった。炎は画布という矮小な器に収まりきらず、今にも溢れ出して世界を焼き尽くさんばかりだった。絵筆を置いた指先の震えが止まらない。私は、私自身のこの激情を持て余していた。

帰り道、街並みは私の描いた空と同じ、熟れた果実のような緋色に染まっていた。穏やかな顔で行き交う人々。その誰かの胸のうちに、私と同じ地獄の業火を宿している者はいるのだろうか。

ふと、歩道の縁石の裂け目に咲く、一輪の黒薔薇が目に留まった。その花弁は夜の闇を溶かし込んだように深く、濃い緋色。まるで、私の心の臓を抉り出してそこに置いたかのようだ。抗えない引力に、私はそっと手を伸ばす。

指先がビロードのような花弁に触れる。その花弁から滴る夜露は、まるで私のうちから溢れた粘度の高い熱のようだった。そして雷に打たれたように確信する。

この薔薇は、私だ。

美しく咲き誇りながら、その奥底には誰にも知られぬ激しい熱と、触れる者すべてを傷つける棘を隠している。

その夜、私は夢を見た。私の白い肌の上に、無数の黒薔薇が咲き乱れる夢を。そのひとつひとつが内なる炎と共鳴し、鮮烈な緋色の光を放ちながら、私の血を吸って咲き誇っていた。

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