第32話 繋ぐもの

 学食での一件以来、遠夜の中に生まれた「にじみ」は、消えることなく心の隅に留まっていた。

 人として生きる以上、いつかは決めねばならない進路。けれど、翠と過ごす日々が穏やかで満ちているほど、その「次」を考えることが遠のいていく。

 どうしよう。その気持ちだけがもやもやとくすぶっている。だが、翠は何も言わない。いつもと同じように、自分の傍に寄り添ってくれている。

 いっそ、翠に相談して、自分も主様の傍に仕えさせてほしい、と言ってしまえたら楽になるだろう。


 でも──


 そんな葛藤が、僅かに軽くなったのは、ポストに入っていた旅行社からのパンフレットだった。


──これからの時期にオススメ!初心者でも楽しめる山歩き。

──美しい自然の中、最高の時間を過ごしませんか?

──絶景!ガイド一押しの紅葉ポイントはここだ!


 そんな文字が並んでいる。

 翠と過ごすようになってから、すっかり足が遠のいてはいた。だが、表紙や掲載されているツアーの説明欄の写真を見ると、忘れかけていたものが少しずつよみがえって来る。

 翠と出会ったのも、元々はトレッキングで足を滑らせたのがきっかけ。今にして思えば、それはそれでよかったと思える。だが、心のどこかで、怖い気持ちがあったのかも知れない。

「……山に行くのか?」

 夕食の後。テーブルでパンフレットを開いていると、珈琲を淹れてくれた翠が隣から覗き込む。

「うん。……最近、行ってなかったし。あ、これいいな」

 遠夜が目を止めたのは、初心者向けのコースの一つ。専属ガイドと一緒に、自然豊かの山道を土地の言い伝えと共に歩く、という内容だった。

 価格も手ごろだし、足慣らしにはちょうどいい。

 熱心に写真と文字をたどる遠夜の横で、静かにパンフレットを見つめていた翠が、ぽつりと口を開く。

「俺も行きたい」

 翠の言葉に動きが止まる。

「え?」

「……それほど、驚くようなことを言ったか?」

 遠夜の反応に驚いたのか、翠の目が一瞬沈む。違う、と首を横に振ってから、ツアーの詳細を確かめるためにパンフレットへ視線を戻す。

「だって……ここは、翠さんの『主様』の山じゃないでしょ?……怒られたり、しないの?」

「土足で踏み入って、わが物顔で荒らせば、怒りも買うだろうが……礼を尽くせば、そのようなことにはなるまい」

 とはいえ、知らぬ『主』の懐へといきなり訪れるのは、礼を失することになるかもしれない。

 真顔で呟いた後、翠は静かに身体を起こす。

「この、『つあー』に参加するなら、事前に許可をいただいてくることにしよう」

 共に過ごすようになって少しずつ、表情らしいものも出てきてはいるが、やはり翠の感情を雄弁に語るのは、その目だ。

 蛍光灯の灯りを受けて、きらきらと輝くその色は、日の光を受けて輝く清流そのもの。

 ふ、と表情を崩すと、遠夜は頷いた。

「わかった。じゃあ、申し込んでおくね」

 こういった時に必要な身分証明書だが、翠に関しては必要がない。

 誰も、彼がそういった類のものを持っていないことを気にしないのだ。今まで何度か、身分証を求められたことがあったが、決まって遠夜だけ確認される。

 これも『主様の力』なのだろう、と最近はようやく気にしなくなったが、一緒に過ごすようになった当初はずいぶんと驚いたことを思い出して、ほんの少しの切なさと懐かしさに目を伏せた。

「住所と氏名ってこれでいい?」

 今まで何度か提出したもの。緊急の連絡先として電話番号なども記載するのだが、仮にここにかけたら、出るのは『主様』なのだろうか。

 自分の想像に一人口元を緩めながら、申込書を記入した。


        ◇◇◇◇◇◇◇


 ツアー当日。翠が『山の主様』のもとへとあいさつにいったからか、申し分のない晴天が広がっている。

「皆さん、今日はついてますね」

 なんて、ツアーガイドが言うくらいに穏やかな空気。ツアーのバスを降り、山に入る前の注意事項や荷物の点検、軽い準備運動をしている時も、心地良い風が吹き抜けていく。

 久し振りの空気に気持ちが弾むのと同時に、隣にいる翠が気になって仕方ない。

 彼の身を包んでいる登山装備は全て遠夜のバイト先で買いそろえたもの。本来は必要のないそれらを、遠夜が教えた通り、リュックサックに詰めて背負っている。

 足元もきちんとした登山靴。

 真新しい装備品を見て「あなたも初心者なんですか?」なんて話しかけてくるツアー参加者のあしらいも、装備を点検するガイドへの対応も、全て申し分のないものだった。


──翠さん、すごいな。


 遠夜は純粋に感心していた。

 一緒に暮らしていくうちに、『人』としての振る舞いを覚えて来た翠。彼は何でもないことのように振舞っているが、仮に自分が翠の世界のならわしを学んだとして、同じように振舞えるだろうか。

 安直に、「翠の世界に行く方が楽」なんて、一瞬でも考えた自分を恥じて視線をそらす。

「どうかしたのか?」

 不意に声をかけられて肩が跳ねた。大丈夫、と首を左右に振る。

「……なんでもない。行こ」

 冷たい指先で頬に触れられそうになり、遠夜は慌てて歩き出す。装備の点検を終えたガイドが、歩き出す動きに従って、参加者が列を作り始める。

 その最後尾。登山口へと入る前に、翠は一人、何もない場所で足を止め、木々に向かって深々と頭を下げる。暫くじっとした後、身体を起こした。

「では、行こうか」

 きっと今の一礼はこの『山の主』への挨拶だったのだろう。なんとなく、張り詰めた空気が緩むような気がして、遠夜は深呼吸してから足を踏み出した。

 初心者向け、ということもあって、比較的整備の行き届いた登山道だ。

 参加者もガイドも、雑談をしながら登っていく。途中、木の違いの説明や、この一帯に住んでいる動物の話、変わった形の岩にまつわる伝承──

「皆さん、あそこに見える大きな木。岩を抱えているように見えるでしょう?あれは『乙女の祈り』と呼ばれていましてね。昔、大水が村を襲おうとしたとき、一人の娘が、山の神へと祈ったところ、憐れんだ神が大きな岩をそこに落として水の流れを変えた。娘は木に姿を変えて、岩が落ちないように支えている、なんて言い伝えがあるんですよ」

 ガイドが語る昔語りに耳を傾けた参加者たちが、思い思いの感想を言い合う中、一人暗い目をしている翠に気づいて、遠夜は首を傾げる。

「どうかした?」

 遠夜の声に翠は微かに笑った。声を低く落とす。

「……俺が聞いたのは。あの木は『成れの果て』だった」

 成れの果て。

 良い響きではない言葉に遠夜の眉が下がる。

「この『山の主』に『悪さ』をした者がいてな……彼が宝と思って抱きかかえていたものは『大きな岩』だった。だが、それを岩と思わず、宝と信じた男が手足を伸ばしてしがみつくのを見て、ならば、と相応しい姿に変えた──」

 彼が『聞いた』のは、おそらく男を木に変えた『張本人』だ。背筋が冷えるような話を、淡々と囁く翠が一呼吸の間を置く。

「だが……『この話』の方がずっといい」

 『事実』と『伝承』。それはどちらが上だ下だと優劣を決めるものではない。どちらも『真実』でかまわない、と。

 そう語る翠の姿は、遠夜には手の届かないものに見えた。

 けれど、彼は自分の隣で、確かに息をして同じ時間を過ごしている。積み重ねた日々は、彼が過ごしてきた時間の中では瞬きするほどの一瞬かも知れないけれど。

「あれ?疲れちゃいましたか?」

 ガイドの声に我に返る。歩き出した列から少し遅れた遠夜と翠に声をかけたガイドは、先ほど『乙女の祈り』の話をしてくれた人だ。

「あ、えっと。その……」

 あたふたと言い訳を考える遠夜の横で、翠は丁寧に頭を下げた。

「面白い話だな、と盛り上がってしまいました。すみません、すぐ歩きます」

「大丈夫ならいいんですよー。ゆっくりでも」

 行きましょうか、と明るい笑顔のガイドと、それに頷いて返す翠。遠夜もやや遅れて歩き出す。


──人の語る伝承、あやかしの語る事実。


 そのどちらも大切なもので、繋いでいきたいもの。


 そう思った瞬間、遠夜の心の隅のにじみが、澄んだ水に溶けるように薄くなっていく気がした。

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