第31話 ひと巡りの季節

 どちらのものとも分からなくなる程に求め合った夜が過ぎ、窓の外が明るくなった頃。

 ベッドの上でゆっくりと目を開く。

 もぞりと身じろぐ。隣で眠ったはずの翠の姿はそこになかった。

 蘇るのは自分の身体に触れた冷たい指と、熱を帯びた青い目。あれは夢だったのかと思った瞬間、鈍い身体が現実だと伝えてくる。

 ほんの少し、身体の奥に熱を覚えることに布団の中に潜り込もうとしたところで静かな声が響いた。

「おはよう」

 いつからそこにいたのか。朝日の中、翠が立っていた。ゆっくりとベッドに腰を下ろすと、遠夜を見て目を瞬かせる。

「体は大丈夫か?」

 声の響きと穏やかな目の色。そこにあるのは、自分に対しての気遣い以外の何もない。が、当の遠夜はそれどころではなかった。

「翠さん、服……」

 光に溶けた身体の輪郭。確かに自分が触れたその肌と──赤裸々に思い出してしまい、声が上擦ってしまった。

 指摘をうけて、一瞬自分の身体に視線を向ける。

「君も裸だろう?」

 それはそうなのだが。布団に潜り込んだまま、眉を寄せて翠を見上げる。

「……俺は布団で隠してるからいいの。せめてパンツくらいはいて」

 反論はない。言われるがままに脱ぎ捨てていた下着に足を通す様を、つい目で追ってしまい、遠夜は枕に顔を埋めた。

 静かに衣擦れの音がした後、軽く軋むベッド。そろそろと顔を上げると、シャツを羽織り、1、2つボタンを留めた翠がベッドに腰を下ろして自分を見ている視線とぶつかった。

「これでいいか?」

 その声には、昨夜よりもわずかに柔らかい響きが混じっていた。

 柔らかい日差しの中、白い翠の髪は光をまとっているように輝いている。その光の強さから、朝よりも昼に近い時間帯なのかもしれない。

 二人の間に沈黙が流れる。伸ばされた翠の指が髪へ触れると、ゆっくりと瞼を下ろした。

 髪を梳く指の冷たさが心地良い。時折、肌に触れる感触に昨晩の事を思い出してしまうけれど、それも含めて──

「翠さん」

 髪を梳く手の動きが止まる。続く言葉を待つ、穏やかな青い色。ほんの僅か、揺らいでいるその色に布団の中から指を伸ばすと、自分から頬を押し当てるようにして翠が距離を詰めてくれる。

「君の手はあたたかいな」

「翠さんの手は冷たいね」

 自分の頬へと押し当てらる翠の掌から伝わってくるのは、熱ではなく冷えた水の冷たさ。火照った肌に心地良いそれに目を閉じ、小さく息を吐いた。

「……でも。俺はこの手がすき」

 目を開くと、反対側の手も伸ばして、翠の頬を両手で包んで引き寄せた。逆らわず、身体を倒した翠の白い髪が肌に触れる。話せば唇がかすめる程の距離で、遠夜はゆっくりと唇を開いた。

「翠さんが好き」

 言い終わると同時に軽く口づける。軽く触れ合わせるだけのキスを繰り返した後、静かに離れた。青い目が、深い水底で熱を帯びたように揺らめき、遠夜は息をのんだ。

「遠夜」

 そっと唇が重なる。すぐに離れるが、また押し付けられ……だんだんと触れ合わせる時間が長くなる。

「……ただの水たまりだった俺に名をくれた。人の心を教えてくれた……そして熱をくれた」

 名残を惜しむように、柔らかく肌を食んでから一度顔を浮かせる。

「君がいたから。俺は、世界の広さを知ることが出来た──」

 言葉が途切れたのは、途中で遠夜が顔を寄せたから。まぶたを伏せるように視線を落とす翠に、遠夜はゆっくりと笑みを浮かべた。

「……『好き』って……俺は言ったよ?」

 からかうような口調。答えを待っていると、翠の口端が上がった。水面に落ちた光のように、翠の目が揺れる。

「あぁ……俺も『好き』だ」

 遠夜は笑みを浮かべる。頬から首へと腕を絡め直すと、翠を引き寄せた。


        ◇◇◇◇◇◇◇


 ──あの日を境に、季節がひと巡りするまでの間、遠夜の隣にはいつも翠がいた。

 一人暮らしだった部屋。人のような生活は必要ないから、と彼の身の回りの品が増えることはなかったが、二人で出かけた動物園や、博物館での思い出の品を飾る場所が増えていく。

 時々、珈琲を飲みながら、思い出を語る時間。それが何よりも代えがたいものであることは、月日を重ねる度に実感していく。


 けれど。「人」として生きる自分には、大学の課題やバイトとは別に、「これから」という時間の流れが心の隅に染みのように滲んでいた。


 いつもの学食で、三春と話している時。共通の顔見知りも交えて、何とはなしに将来の話になった。

「三春はどうすんの?ジュエリーデザイナー、だっけ?なんかそういう方向に行くの?」

 気の置けない友人の言葉に、三春は頬杖をついて視線を彷徨わせる。

「希望はね。でも……」

 盛大にため息。三春にしては珍しい、と遠夜と友人は顔を見合わせた。

「アクセのデザインは好きだし、楽しい。作ったのを買ってくれたお客さんからメッセージ貰うのも嬉しいけど……仕事ってなると、そうじゃないでしょ?」

 何でもそうだけどね、と軽く肩をすくめる。

「好きだからこそ、趣味のままにした方がいい事もあると思うんだよね。俺にとって、アクセ作るのはどっちなのかなーって」

「……なるほど。難しいよなぁ」

「だねぇ……。でも、気分転換なら何時でも付き合うからさ。はるちゃん、抱え込みすぎないでね」

 遠夜の言葉に三春は大きく眼を見開いた後、いつものようにへらりと笑った。

「ありがと、とやくん。とやくんも、何かあったら相談してね?」

「俺は?」

「お前はだめー」

 軽口の応酬で盛り上がる二人の横。曖昧に笑いながら、遠夜の中にあるにじみが大きくなってしまう。

「とやくんはどうするの?」

 不意に話を振られて肩が跳ねる。目を伏せて、考えた後、眉を下げた笑みを浮かべた。

「まだ実感がなくて。ふわっとしてる」

「わかるー」

 と同意してくれる友人たち。彼らの存在も、遠夜にとっては日常の一つだ。やがて離れ離れになるなど考えたくもないが、その時は確かに迫ってきている。


 ──どうしよう。


 悩む遠夜の吐息が、手にしたコップの水面をそっと揺らした。

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