第22話 君に触れて、世界を知る

  少女と母親が立ち去った後。

「翠さん」

 遠夜の声に彼はゆっくりと視線を向けた。表情はいつものままだ。目の色も少し戻ってきてはいる。

「少し、やすもっか」

 こっち、と人の流れが途切れた脇道へと、遠夜は翠の手を引いた。

 先程までの喧騒が嘘のように、ここは静かだった。盛りを過ぎた区画なのだろうか、乾いた葉と土の匂いが微かに漂っている。ぽつんと置かれたベンチの前で、遠夜は足を止めた。

「翠さん、ちょっとここに座ってて」

 翠は何も言わず、こくりと頷いてベンチに腰を下ろす。その姿を見届けてから、遠夜は小走りで来た道を引き返した。

 少し離れた場所に見えていた自動販売機に小銭を入れ、ペットボトルの水を買う。ボタンを押し、取り出し口に落ちてきたそれを手に取った瞬間、記憶が鮮やかに蘇った。


 ──あの時と、同じだ。


 違うのは、ベンチに座っているのが翠で、彼を助けようと走っているのが自分だということ。

 冷たいペットボトルを握りしめ、遠夜は翠の元へと戻る。隣に腰を下ろし、黙って水の入ったそれを差し出した。

 翠は静かにそれを受け取ると、一口だけ、喉を潤すように飲んだ。

 しばらく、二人の間に言葉はなかった。視線を彷徨わせていた遠夜が、おそるおそる翠の横顔を窺う。

「……遠夜」

 先に口を開いたのは、翠だった。

「俺は、何か間違えたのだろうか」

 その声に、落ち込んでいるような響きはない。ただ純粋な疑問だけがそこにあった。

「あの母親は確かに喜んでいた。娘も同じ。……それが一瞬で泥をかき混ぜたように濁ってしまった」

 ペットボトルを握る翠の指先に、ぎゅっと力がこもる。

「……違うよ」

 遠夜は、静かに、だがはっきりと首を振った。

「翠さんは何も間違ってない。ただ、あの子を助けようとしただけだ。……お母さんも、翠さんに感謝してた。それは本当だよ」

「だが、結果としてあの母親は俺に強い負の感情を抱いた。違うか?」

 翠の青い瞳が、まっすぐに遠夜を見つめる。問いかけるような、答えを求めるような光。

「多分……お母さんは、怖かったんだと思う」

「怖い?」

「うん……俺も、最初に聞いたでしょ?これ」

 と、首にかけていた輝石を服の下から取り出して見せた。指で触れるとひんやりとした感触が伝わってくる。

「『監視カメラなの?』とか『盗聴してるの?』とか」

 わざとおどけてみせる。眉間に皺を刻み、半目で翠をにらんだ後、軽く肩を竦めた。

「あのお母さんにとって、翠さんの言葉は、それと似てたんだと思う」

 遠夜は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。

「俺がもし、あかりちゃんのお母さんを探すとしたら……まず『どうしたの?』って声をかけて。それから、『お母さんの名前は?』とか『どんな服着てた?』って質問したり、その辺の人に聞いたりして、一緒に探して回る。インフォメーションセンターに連れて行ったりとかもね。一つずつ、順番に、わかることを積み重ねていくんだ」

「……」

 翠は黙って聞いている。遠夜は少し息を整え、柔らかく続けた。

「でも翠さんは『見える』から。『君と同じように震えている人がいる』って……あかりちゃんの名前も聞かないまま、お母さんを探しちゃったでしょ?」

 あの少女の無邪気さを思い出すと少し心が柔らかくなる。彼女の心は、見えなくなるまで温かいものであったと思いたい。

「それが……俺が、初めて翠さんから石を貰った時と同じようになっちゃったんだと思う」

 あの母親の気持ちもわかる。もし、自分の娘が得体のしれない連中に連れまわされていたら。

 そうなったら──

 膝の上で指を握り締めてから、静かに顔を上げた。

「俺みたいに……翠さんと話していたら。絶対、悪い人じゃないって……」

 最後の言葉が、堪えきれないように微かに上ずる。

 誰も悪くない。

 母親も、翠も。それぞれが、自分にできることを精一杯していただけ。

 迷子の少女を気遣う翠の思いやりも、娘がいなくなった母親の不安も、再会できた喜びも。

 どれも理解出来るものだったからこそ、自分が何とかできなかったのかという思いが強くなる。

「ごめん。……俺がもっと早く気づいてたら」

 自分にとって翠の存在はいつの間にか日常の一つになっていた。

 彼の能力も、生真面目過ぎる性格も。

 表情よりも雄弁な目の色、何より──優しい冷えた指の温度。

 他の人から見たときに、翠の存在はどういうものになるのか。考えることを忘れてしまっていた。

「……遠夜」

 静かな声に続けて、ペットボトルが差し出される。

「少し飲むといい。声がかすれてしまっている」

 受け取ったペットボトルの重みと、翠の気遣い。そこで初めて、自分が一方的に言葉を並べていたことに気づく。血液が顔に集まってくるのがわかった。

「あり、がと」

 羞恥に目を伏せ、一口水を飲んだ。きゅ、と蓋を閉める音がやけに大きく響く。そのまま返そうとするが、翠の手が制するように重ねられた。

 自然に視線が彼を見る。その表情は相変わらずの無表情。ただ、その目は穏やかに澄んでいるように見えて、視線が外せなくなる。

「今まで君が俺にしてくれた……言葉を尽くして、相手が理解出来るように。その配慮が俺にはなかった、ということだな」

 悲嘆でも落胆でもない。恨み言や悲しい響きは一切なかった。ただ、事実をそうと受け止める声。

「君を通して見る世界は。とても鮮やかで、美しいもので。でも、それは」

 言葉が途切れた。ほんの少しだけ伏せた目の色が揺れる時間。そんな小さな時間すら、大切だと感じる自分に気づいて、首に下げた輝石をぎゅっと握ると、静かに響く声。

「君の言葉がそう見せていたのだと。……今、わかった」

 その穏やかな声と同時に、翠の表情が、はっきりと変わった。

 以前、喫茶店で見た自覚のない表情ではない。まるで氷が溶けて、下に隠れていた春の水面が現れたかのような、柔らかく、慈しむような微笑み。

「俺は『人の世』を学ぼうとして、一番大切な、目の前の人を見ていなかった」

「え……」

「ありがとう、遠夜。君はずっと、俺を導いてくれていたのだな」

 翠の手が、そっと遠夜の髪を撫でる。それは子供をあやすような仕草ではなく、ただ純粋な親愛と、初めて知る感情への戸惑いが混じったような、ぎこちなくも優しい手つきだった。

「君のように。丁寧に言葉を選ぶことはできないかも知れない。だが……学ぶだけでなく、君に向かって声に出すことに努めよう」

 指が離れていく。両手を膝に置いた翠は、表情を改めると深く頭を下げた。

「そ、んな。頭あげて、翠さん。俺、そんなすごいことしてないし」

 慌てて体を起こさせる。動揺で早くなった鼓動落ち着かせるため、ペットボトルの水を一口。ふーっと大きく息を吐き出した後、表情に困って曖昧な笑みを浮かべる。

「言ったでしょ。俺は翠さんと友達になりたい、って。だから、そんな改まらなくていいよ」

「しかし」

「ほら。せっかくきたんだから。閉園前に見れるだけ見よ」

 強引に腕を取って立ち上がる。こっち、と数歩歩いてから腕を離して隣に並ぶ。

「……」

 さっき翠が触れた髪へ、無意識に指がのびた。あの笑みと手の温度が、胸にまだ残っている。少女と母親のことは、まだ苦いままだけれど――

 今日、ここへ来てよかった。

 翠の表情と言葉が、胸に刺さった痛みをやわらげていくのがわかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る