第21話 優しい棘

 植物園に出かける約束をした当日。

 遠夜なりに気合を入れて服を選んで、髪もセットした。

「……俺だけ一人ではしゃぎすぎかな」

 鏡の前で眉が下がる。だが、今日は自分にとっては「特別」だ。

 そう言い聞かせて家を出る。

 翠とは駅前で待ち合わせ。電車に乗る体験もして欲しかったから。切符を買って、電車に乗って。そんな出かけ方はきっと初めてだろう。

 どういう反応をするのだろうかなどと考えているうちに駅前に辿り着く。

「……早く来すぎちゃったかも」

 時間をみれば、約束の15分前。スマホでも見て時間を潰そうかと考えたところで、聞き慣れた声。

「そうだな。まだ15分ある」

 突然降ってきた声に肩が跳ねる。その白い髪は先程までは駅前にはいなかったはず。

「翠さん、どこ……」

 続く言葉が失われる。ゆっくりと目を瞬かせる遠夜の前に立っているのは、確かに翠だ。

「……どうしたの、その服」

 翠はいつも三春が選んだ服を着ていた。毎回同じ服装だが、周囲がそれを奇妙に思わないのは、『主様』とやらの力なのだろうか。

 だが、今日の翠は違った。

 カットソーの上にテーラードジャケットを羽織っている。今まで見たことがない恰好に遠夜は上から下までまじまじと見つめてしまった。

「三春が選んでくれた服は動きやすくていいのだが……物を持ち歩くには不便だ」

 ジャケットを軽くはだけ、内ポケットを見せてから手を下ろす。

「だから自分で選んだ。これなら、物が入れられる」

 表情は相変わらず。だが、どことなく得意げに見えて、遠夜は笑みを浮かべて頷く。

「うん。似合ってる。便利なの、いいよね」

 遠夜はいつも下げているボディバッグを背負いなおしながら、足を踏み出す。

「ところで、どこにいたの?全然見えなかった」

「……ここにはいた。だが、気配を絶っていた」

 意味が理解できずに首を傾げる。

「何か目的があれば別だが。常日頃、道端の石を数えたりはしないだろう?先程まで、その石と同じになっていた」

 だから消えたわけでも、突然現れたわけでもない。

 言外に滲む言葉に遠夜は軽く肩を揺らした。表情を緩めたまま、行こう、と促して歩き出す。

「俺と一緒にいるときは、ちゃんと「居て」ね?」

 しっかりとした頷きが返って来る。遠夜も頷き返してから、券売機へと向かった。

「ここにお金を入れて……えっと、このボタン」

 路線図を見て、目的の駅を確かめてから切符のボタンを押すと、取り出し口に吐き出される紙片。興味深そうに摘まみ上げた翠に、次はこっち、と改札の方へと促す。

「ここに切符を入れるんだよ」

 言われた通り。買ったばかりの切符を投入すれば、ばたん、と閉まっていたゲートが開き、紙片が向こう側へ滑る。

 慎重に通過する翠の横を、遠夜はICカードで抜けた。

「……君は切符を買わないのか?」

 翠が取り忘れた切符。遠夜が拾ったそれを受け取りながら、僅かに首を傾げる。

「うん。俺は、これ」

 とスマホを軽く振って見せる。

「で、電車に乗れるんだよ」

 すごいでしょ、と冗談めかして告げたのに、翠は真顔で頷いている。

 その後も、滑り込んできた電車に驚いたり、乗り降りの際には降りる人が先、出入り口付近は空けておくなどのルールをひとつずつ教え、また聞かれることに答えていれば、あっという間に目的の駅に着く。

 駅を降りた時から、街路樹だけでなく、花壇や植木が目立つ作り。あの建物か、とわかる程には緑が多い建築物が一際目立つ。

 温室やレストランらしい建物も見える。案内によると、湿生植物を集めた場所もあるらしいが、それは遠目からはわからなかった。

「結構、人来てるんだね」

「そうだな」

 老若男女。子供から老人まで、歩いている人の年齢の幅も広い。あまり混雑していては、カラオケ店のように音の多さに疲弊してしまうのではないだろうか。

 ちらっと翠を見るが、その目の色は穏やかなままだ。話し声は確かにするが、大声で騒いでいるわけではないから、それほど気にならないのかも知れない。

 眉間に皺のない、いつも通りの横顔に小さく息を吐き出す。そのまま暫く並んでいれば、中へと入ることができた。

 「世界の花々展」の名前の通り。入った瞬間に甘い香りが満ちる。

 巨大な特設花壇には、赤、青、紫、と淡い色彩から派手な色まで、幅広く。見たことがない形の花もあるが、不思議とうるさくはなく、それぞれが主役に見えるように展示されている。同時に湿った土や草木の香り。順路、と書かれた矢印の先には、ガラス張りの温室が見える。

 花壇の傍の看板には、花の名前や学名などが写真とともに添えられており、詳しく学びたい人はそちらを、ただ花を愛でたい人は花壇の前で写真を撮ったり。

 一気に変わった空気に圧倒されていたが、やがて二人も、歩き出した。

 見覚えのある花や、初めて見る花。店で売られているものは知っていたが、木になっているところは初めて見る果樹。

 正直、翠のためだとか、そういうことは忘れてしまう程、遠夜自身も楽しんでいた。

「次はどこいこうか──?」

 次に向かう場所の相談をしようとして、翠を見た遠夜は言葉を途切れさせた。翠の視線が、展示物とは違う方を見ている。

「何かあった?」

「……濁っている」

 そう言うと、翠は人の流れを切って歩き出した。

 何のことか分からないまま、遠夜は後を追う。人の間をすり抜け、頭を下げながら。

 唐突に足が止まり、ぶつかりかけて遠夜は立ち止まる。

 行き交う人の隙間に、小さな影。両手をぎゅっと握り締め、唇を噛みしめた少女がそこにいた。


 ──濁っている。


 翠が言ったのは、きっと彼女の心のことだ。

 どうするかを尋ねるより前に、翠は静かに足を踏み出した。

「……あ」

 自分の目の前で足を止めた翠を見上げる瞳は潤んでいる。泣くのを必死に堪えているのが遠夜にも分かった。

 そんな少女の前に、翠は驚かさないように静かな動きでしゃがみ、視線を合わせる。

「ぁ、あの……おかあさん」

「君と同じように震えている人がいる。きっと君の母親だ」

 その声は驚くほど穏やかで。怯えるように力の入っていた少女が小さく頷く。

「歩けるか?」

 再び頷いた後、不安げに遠夜を見上げる。

「おにいちゃんもいっしょにくるの?」

 突然話題を振られて目を瞬かせる。ちらっと翠の背中を見てから、頷いた。

「うん。俺も一緒に行く」

「遠夜。君は彼女を」

 翠の視線は遠夜も女の子も見ていない。きっと母親を探しているのだろう。

「……」

 ほんの少し、胸の奥が沈む。翠の背が遠くに見えた気がして、僅かに眉を寄せる。

 自分を守る、と言ってくれていたのに。

 浮かんだ暗い考えに、ゆっくりと頭を振った。翠は、元々は道に迷った人を案内したりしていた、とも言っていた。こうして、困っている人を助けて、その感謝の念を主様へと送るのは、彼にとっては当たり前のことなのだろう。

 それに、もし自分が先に気づいていたなら、同じように声をかけていたはずだ。

 自分には翠のような特殊な力はないけれど。不安がる彼女に話しかけることくらいはできるはずだ。おずおずと伸ばされた小さな手が、自分の手をぎゅっと握った。

 歩き出す翠の歩みは普段よりもずっと遅い。少女の足でもついてこれる速度に落としているのだろう。それでも、彼女が疲れていないか、遠夜は様子を見ながら話しかける。

「このお兄ちゃんはね。探し物が得意なんだ。だから、君のお母さんもすぐ見つけてくれるよ」

 おかあさん、の言葉に少女の表情が緩んだように見える。不安からか、母親や学校の話を始める少女に相槌を打ちながら、翠の後を追って暫く。

「あかり!」

 人ごみの向こうから女性の声が響く。ばたばたとこちらへ走って来る女性を見て、少女の顔が輝いた。

「おかあさん!」

 遠夜の手から離れていく少女の背中。抱き着かれた女性も少女を抱きしめ返す。何事かを話した後、こちらへと近づいてきた。

「あの、本当にありがとうございます」

 何度も頭を下げてお礼を言われる。少しくすぐったくて、遠夜は眉を下げた。

「お礼なら彼に。俺は、あかりちゃんと一緒にいただけですから」

 翠の方を見れば、彼はいつも通りの無表情。頭を下げる母親に対しても、軽く会釈をするだけだ。

「あのね、おかあさん。あのおにいちゃん、すごいんだよ」

「そうなの?」

「うん。私が泣きそうになってたら、『君と同じように震えている人がいる』って言ってね。ついていったら、お母さんがいたの」

 すごいでしょ。

 屈託のない少女の言葉に、母親の顔からさっと血の気が引くのがわかった。笑顔が張り付き、その目は翠をまるで得体の知れないものでも見るように見つめている。

 ゆっくりとした動きで自分の後ろへと少女を押しやるようにして前に立つ。先程までの笑顔が消えて、強張った表情がはりついているのに、遠夜は、あ、と小さく呟いた。

 自分にとって、翠の力は見慣れたものになっていた。だが、彼を知らない人からすれば、『不思議な力を口にする怪しい人物』になってしまうのではないだろうか。

「……ど、うも……ありがとうございます。あの、主人が迷子センターにいますので……失礼します」

 気づいた時には遅かった。

 母親は早口にそう言うと、ぎこちなく頭を下げ、逃げるように少女の手を引いて人混みの中へ消えていった。

 残された遠夜は、翠の横顔を見上げる。

「お母さん、見つかって良かったね……」

 良かった、と言う言葉には合わない沈んだ声。すれ違いざまに見えた母親の肩は、小さく震えていた。

 翠の目の色も暗く沈んでいる。その色の奥に映る痛みを見た気がして、遠夜も目を伏せ、息を吐き出した。

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