高橋冬華③
嫌だとは言えず、河嶋と教室まで行くことになってしまった。前を歩く女子達は冬華達が気になるのか、頻繁に振り向き、鋭い目つきで睨みつけてくる。入学式が始まるまではにこやかに挨拶を交わす仲だったのに、今は視線が刺さって痛い。
それにしても、と隣を歩く河嶋を見る。河嶋は顔をこちらへ向けて見るばかりで一言も発しない。話しながら行こうと誘ってきたのは河嶋だというのに。
名を呼ばれたかと思えばがっかりされ、話したいと言ってきたにもかかわらず何も話さない。冬華は女子生徒達から妬まれてしまっているというのに。これからの高校生活に支障が出るのは避けたいところだ。一刻も早く河嶋から離れなければと口を開いた。
「あの、お話がないようなので、行っていいでしょうか」
「ん? ああ、ごめんごめん。いや、春奈ちゃんとよく似てるなあと思って」
「え……春奈、ですか?」
突然出てきた春奈の存在に、冬華は目を丸くしてその場で立ち止まった。長い間村にいなかったはずの河嶋が、何故春奈のことを知っているのか。
河嶋も数歩先で止まったものの、動かない冬華を見て戻ってきた。元々、彼は距離が近めなのだろうか。またしても近く、つい一歩後ろへ下がりたくなる。
それを必死に耐えていると河嶋は中腰になり、目を細めながら右手を伸ばしてきた。その手をどうするつもりなのだろうかと目で動きを追っていると、冬華の左目の下を優しく撫でられた。
「……っ、なっ、何するんですか!」
二、三歩後ろへ下がり、河嶋と距離を取った。
河嶋を見て女子達のようにはしゃぐことはなかったとはいえ、異性に触れられるとさすがに心臓が高鳴ってしまう。全身は血液が沸騰しているかのように熱く、顔も赤く染まっていることだろう。
これでは、触れられて舞い上がっているように取られてしまうかもしれない。恥ずかしいと顔を俯けると、河嶋の足が視界に入った。冬華が離れた分だけ距離を詰めたようだ。
「ああ、悪い。この辺だったかなあって思ってさ」
「な、何が、ですか」
「春奈ちゃんの泣きぼくろ」
「……は?」
全身の熱が急速に冷めていき、思考が停止しそうになった。
確かに、春奈は生まれたときこそなかったものの、成長するにつれて左目の目尻の少し下あたりに泣きぼくろができた。本人は嫌がっていたが、可愛いよと言い続けているうちにチャームポイントとして受け入れられるようになったようだ。
だが、その春奈の泣きぼくろが冬華とどう関係がある。どうして、触れてきた。
「ほら、行こうか。高橋のことをいろいろと教えてほしいなあ。知っておきたいんだよ、今後のために」
背中を軽く押され、冬華は胸中にある疑問を抱きながらおずおずと歩き出す。
河嶋は何を訊きたいのか。今後のために知っておきたいとは、どういう意味なのか。春奈の泣きぼくろのことと言い、不信感が拭えない。河嶋の真意を探ってみるかと、冬華から話しかけた。
「あ、あの、河嶋先生はもう生徒の名前を覚えていらっしゃるんですね。すごいです」
「覚えてないよ」
「え? でも、私の名前……」
「覚えてたのは、春奈ちゃんが教えてくれたから。名前も言ってくれてたと思うけど、悪いな。名字しか頭に残ってない。はははっ!」
意味がわからず、どこに笑う要素があったのかはわからなかったが、河嶋は軽快に笑った。
それにしても、何だろうか。この何とも形容できない違和感は。
「……春奈とは、どこで会われたんですか?」
「入学式に来てただろ? 春奈ちゃん、始まるまでつまらなかったみたいでウロウロしててさ。迷子かと思って声をかけて仲良くなったんだ。お姉ちゃんがいるんだとか、たくさん教えてくれたよ」
そんなことがあったのかと思っている間も、河嶋による春奈の話が止まらない。
「いい子だよな、春奈ちゃん。今年四歳だっけ? それにしてはしっかりしてる。挨拶もできて、お名前も言えて、俺にニコニコ笑いかけてくれてさ。可愛いよなあ」
あっちへ行こうと手を引っ張られた、しばらく遊び相手になったなど、嬉しそうに話している。それも、春奈に引っ張られたであろう右手を胸元まで持っていき、左手で抱きしめながら。愛おしそうな顔をしているのが、気味の悪さを増長させる。
失礼な言い方にはなるが、教師だとわかっていなければただの不審者だ。春奈のことを良く思ってくれているのはありがたいが、二度と河嶋に近付けたくないと思ってしまう。
「そういえば、高橋は春奈ちゃんと顔は似てるのにないんだな」
「ない、ですか?」
河嶋は左手の人差し指を、自身の左目の目尻の下に当てた。
「ほら、泣きぼくろ」
──まただ。また、泣きぼくろの話が出てきた。
河嶋は左手を下ろすと、肩を竦めてわざとらしく大きな溜息を吐いた。何だろうか、何もしていないのに責められているような、そんな気分になる。
「一応聞くが、嫌で消したとかではないよな? 元からないんだよな?」
「そうですけど……だったら何ですか?」
「高橋に用はないってだけだよ」
吐き捨てるように呟いたその言葉に、これまでの河嶋の態度や冬華に触れた理由を察した。
悪寒で身体が震える。泣きぼくろがないことにあからさまに肩を落とし、くどくどと文句を述べているこの現状。
勘違いでなければ、河嶋は冬華に春奈を重ねようとしたのではないか。
河嶋が泣きぼくろにどんな想いを込めているのかは知らないが、春奈はまだ四歳。たまたま泣きぼくろがあるだけで、こんなにも執着されるなんて。なんて気持ちが悪いのだ、この男は。
冬華がそんなことを思っているとは露知らず、河嶋は気怠そうに話を続ける。
「何で春奈ちゃんは四歳なんだろうな。神様も意地が悪いよ、まったく。高橋じゃなくて春奈ちゃんが来てくれたらよかったのに」
酷いことを言われていると思うが、今は気持ち悪さしかない。河嶋は春奈にどんな感情を抱いているのか。
たった、泣きぼくろが一つあるだけで。
「……あ、あの、そんなに泣きぼくろにこだわる理由って、何なんですか?」
「知ってどうするんだ? 高橋にはないのに」
冬華の問いかけを鼻で笑い飛ばしたあと、横目で睨みつけられる。その目があまりにも鋭くて、言葉が出なくなった。何とか河嶋から視線を逸らし、足元へ目を向ける。
気に障ってしまったようだが、何も変わった問いかけはしていない。何度も泣きぼくろの話題が出たために、こだわりでもあるのかと思い訊いたまでだ。
何より、泣きぼくろがある春奈が大いに関係している。おそらく、ここに河嶋の真意があるのだ。
されど、探り方を失敗してしまった。春奈と顔が似ていても、肝心の泣きぼくろがない冬華への態度は元から良くなく、更に悪化させる結果となった。
ここからどう挽回できるか。そうこうしている間に、教室のすぐ近くまで来てしまった。ちらりと顔を上げれば、教室の扉や窓から女子生徒達が顔を出してこちらを見ている。いや、睨みつけてきている。
泣きぼくろに執着し、四歳の女児に何らかの感情を抱いているであろう男の何がいいのだろうか。すべてを暴露してやりたい気持ちに駆られるが、きっと誰も信じない。あの女子生徒達にとって、冬華は信用ならないからだ。
そのとき、河嶋の足が止まった。先に行ってしまいたいが、冬華も足を止めて彼を振り返る。すると、河嶋は胸ポケットから黒のペンを取り出した。ポン、と軽快な音を立てて蓋を取ると、冬華の元へ近付いてきてペン先が左目の下に当てられた。
「……え?」
ひやりとした冷たいインクの先が、皮膚を貫いて血の気を奪っていくようだった。言葉にならない声を上げながら後ろへ下がり、左手でそっと左目の下に触れた。
書かれた。ここに、春奈と同じ場所に、泣きぼくろを。
「ははっ、見ろよ! やっぱりだ! これならまだ春奈ちゃんに見える、見えるぞ! 高橋、明日からはここに泣きぼくろを書いてこい! いいな!」
愕然とする冬華をよそに、河嶋は今日一番の笑顔を見せた。
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