一人、また一人③

 保健室へ行くと、養護教諭は不在だった。もしかすると、職員室にいるのかもしれない。河嶋が呼びに行ってくれるのかと思いきや、どこからかパイプ椅子を持ってきてソファの前に置いて座り始めた。出入り口の前で立ったままの春奈を振り向き、右手を上下に振ってこちらに来るよう手招く。

 甚だ疑問でしかない。あのような発言をしておきながら、何故「いじめを受けていた生徒を心配する教師」を続けられるのか。

 春奈が置かれていた状況に気付いていて、クラスメイト同様に知らぬ存ぜぬで通していたのはもうわかっている。川田に苛立ったのはいじめが露見したためで、教室内で春奈に寄り添っていたのも担任として何か行動しなければ周りに示しがつかないからだ。誰の目も届かないところまで来たのだから、あとはこれまでのように放置しておけばいい。

 それなのに、まだ関わろうとしてくる。一体、何を考えているのか。

 いまだ立ち尽くしたままの春奈に、河嶋が首を傾げる。いつまでもこうしていると、心配した素振りを見せながらまた近付いてくるかもしれない。小さく息を吐き出し、近付かれるよりはいいと胸中で唱えながらソファへと向かう。本当は少しでも離れたいところだが、それでは不自然かと河嶋の向かいに腰掛けた。

 しかし、河嶋と視線を合わせることができない。顔を俯けていると、ギシ、とパイプ椅子が軋む音が聞こえた。前屈みにでもなったのだろうか。


「高橋、その……首は痛むか?」

「……いえ、もう、大丈夫です」

「そうか。親御さんには連絡を入れようと思っている。ただ、その前に高橋と話したくて」


 話すとは、何を。嫌がらせ──いじめに気付きながらも、黙認していたことか。

 カチ、カチ、と時計の針の音が静かな部屋に響く。その中で聞こえてくる、河嶋の息遣い。この二人きりの空間が耐えられない。春奈は膝の上で両手の指を絡めて強く握り、早く養護教諭に戻ってきてほしいと祈る。


「今日まで、辛かっただろう。よく一人で頑張ったな」


 息が止まる。河嶋が何か話を続けているが、春奈の耳には何一つ届かない。

 この男は、自分がいかにふざけたことを言っているかわかっているのだろうか。

 全く以って理解ができない。どのような精神構造をしていればこんなことができてしまうのかと、逆に気になってしまうほどだ。

 両手に力が入り、指先が白くなっていく。すると、そこに河嶋の手が置かれた。意識が引き戻され、思わず両肩が跳ねる。


「……っ」


 骨ばった指が春奈の手に触れ、大きな手のひらで覆い隠される。その体温が、皮膚から内側へとじわじわ侵入してくるようで、吐き気が込み上げた。

 触らないでほしい。今すぐこの手をどけてほしい。


「俺はまた、同じ過ちを繰り返すところだった。……昔、受け持った生徒もいじめられていてな。その辛さから、自ら命を絶ってしまったんだ。気付いていれば、助けられたかもしれないのに」


 悔しさを滲ませるような声で話す河嶋の手に力が入った。

 気になる話だが、今は一秒でも早く話を切り上げてしまいたい。返事はもちろん、相槌すらせずにひたすら黙る。


「だから、今度は手遅れになる前に気付けてよかった。高橋、俺は絶対にお前の味方だから。傍にいるから、俺を頼ってほしい」


 口から砂糖を吐き出したかのような白々しい言葉に、耳の奥がざらつく。どの口が言っているのかと怒りで頭が真っ白になったとき、保健室に誰かが入ってきた。

 その瞬間、河嶋の手が離れる。顔を上げることなく視線だけを向ければ、白衣を纏った女性の姿があった。


「すみません、ちょっと職員室へ行ってて。河嶋先生、見てくださっていたんですね。ありがとうございます」

「礼を言われるようなことは何もしていませんよ。俺が彼女を一人にさせたくなくて、傍にいただけなんです」


 よくもここまで心にも思っていないことを恥ずかしげもなく流暢に言えるものだ。養護教諭は「優しいですね」と感動しているが、河嶋の上辺だけの言葉は耳障りで仕方がない。

 けれど、これでようやく河嶋から解放される。安堵していると、頭を優しく撫でられた。全身から血の気が引いていくのがわかる。この男は、何回触れれば気が済むのだ。


「じゃあ、俺は親御さんに連絡してくるから。……彼女、具合が悪いようなので、迎えが来るまでは寝かせてやってください」

「ええ、わかりました」

「では、よろしくお願いします」


 パイプ椅子から立ち上がると、河嶋は保健室を出て行った。扉が閉まってすぐ胃から何かが迫り上がってきたため、春奈は両手で口元を押さえる。前屈みになり必死に耐えるも出てきてしまい、両手から溢れ出してしまった。

 慌てた様子で養護教諭が近くにあったゴミ箱を持って駆け寄り、春奈の傍でしゃがみ込んだ。


「大丈夫!?」

「す、すみま、せ……っ」


 両手が汚れてしまっているため、養護教諭にゴミ箱を持ってもらい、そこへ吐き出す。背中をさすってくれる手がありがたい。

 ここに河嶋がいなくてよかったと心の底から思った。吐いているところを見られたくないという気持ちもあるが、いれば確実に春奈の背をさすっていたのは河嶋のはずだからだ。

 それにしても、体調は悪くないというのに突然どうしたのか。吐き気はあったが、あれは河嶋に触れられた生理的に嫌悪感を抱いたからだ。まさか、身体はそれを吐き出そうとしているのだろうか。もしそうならば、全部吐き出してしまいたい。

 嫌悪感だとしても、河嶋に関わるありとあらゆるものを捨ててしまいたい。持っておきたくない。触れられた部分も徹底的に洗いたい。

 胃の中は空になってしまうが、少しの間春奈は吐き続けた。



 * * *



「ご迷惑をかけてすみません」

「とんでもない。それよりも、落ち着いてよかったわ」


 吐き気も落ち着き、春奈はベッドに寝転んでいた。養護教諭は濡れた雑巾を窓辺に干しながら、春奈に微笑みかける。ベッドへ行く前に吐瀉物で汚した床を掃除しようとしたが、養護教諭が綺麗にしてくれたのだ。


「あの……一つ、訊いてもいいですか」

「一つと言わずいくつでもいいわよ。何かしら?」

「……昔、いじめられていた生徒が亡くなったって、本当ですか」


 センシティブな話題であり、かつ河嶋に関係することだ。口には出さないほうがいいとは思ったが、ここ最近の自死事件もあり気になってしまった。

 養護教諭は春奈の問いかけに目を見開くも、すぐに眉間に皺を寄せる。やはり、訊くべきではなかったかもしれない。彼女はパソコンを置いている机に向かうと、椅子に座り背もたれに背を預けた。


「その話、誰かから訊いたの?」

「か……河嶋、先生が、仰ってて」

「──っ」


 ガタ、と大きな音を立てて養護教諭が椅子から立ち上がる。


「先生?」

「ご、ごめんなさいね。河嶋先生がそんなことを仰っていたの?」

「はい。昔、自分が受け持った生徒が自ら命を絶ったと」

「あなたは、その話を聞いて気になっただけ?」


 口調が冷たくなる。モラルがないと思われたのかもしれない。養護教諭から目を逸らし、掛け布団を深く被ると謝罪を口にした。


「……そうです、すみません」

「いいのよ。そんなことを言われると気になるわよね。でも、河嶋先生の話は……ごめんなさい、わからないわ」


 嘘だと思った。

 今までの反応から、彼女は何かを知っているはず。現に、顔が青ざめている。


「あの、先せ」


 コンコン、と扉を叩く音がした。磨りガラス越しに見える人影は二つ。養護教諭が返事をすると扉が開き、河嶋と春奈の母親が入ってきた。


「春奈、大丈夫? 体調が悪くなったって河嶋先生から連絡があって、迎えにきたの」

「え……」


 どうやら、河嶋は首を絞められた経緯は話しておらず、あくまでも体調不調ということで通しているようだった。

 それはそれで構わない。むしろ、ファインプレーだ。これが河嶋でなければ、もっと喜べたのだが。

 首を絞められたなど話してしまうと、教室でされていることも話さなければいけなくなる。両親には、余計な心配をかけたくない。


「お仕事中すみません。迎えに来ていただき、ありがとうございます。高橋、荷物はこれでよかったか? 教室に置いてあったものをそのまま持ってきたんだが」


 河嶋が手にしているのは春奈のスクールバッグ。胸の辺りにモヤモヤとしたものが込み上げるものの、取ってきてくれたのは素直にありがたい。目を逸らしながら小さな声で礼を述べると、ゆっくり身体を起こす。

 パタパタと足音を立てて、誰かが近づいてくる。河嶋だったらと思うと顔を上げて確認することができず、春奈は足元だけを見た。

 見えたのは、来客用の学校名が入った緑色のスリッパ。教師は動きやすいスニーカーかサンダルを履いているので、春奈の前にいるのは河嶋ではない。これで、安心して顔を上げられる。


「……っ、お母さん」

「帰りましょうか」


 にこりと微笑んでくれる母親に、小さく頷くとベッドから立ち上がった。河嶋からスクールバッグが手渡され、目を合わさないよう、極力触れないようにしながら受け取る。


「河嶋先生、その、春奈のことですが」

「ご安心ください。あのときとは違いますよ」

「そう、ですね。そうですよね」


 母親と河嶋は、何を話しているのか。スクールバッグを受け取ったままそちらに気を取られていると、養護教諭が左肩に手を置いた。


「ほら、早く帰って休まなきゃ」

「……はい」


 肩紐を右肩にかけて母親を見れば、河嶋とは会話が終わってしまっていた。春奈は母親と二人で河嶋と養護教諭に頭を下げ、保健室を出る。


「……お母さん、河嶋先生と何を話してたの?」

「何をって、これからもよろしくお願いしますって言ってただけよ」

「あのときって、何?」

「さあ、そんなこと言ってたかしら。それよりも、具合はどう? 今日はしっかり休みなさいね。ご飯も消化のいいものにしましょう」


 話を逸らされてしまった。これ以上何も訊いてくれるなと、そういうことなのだろう。

 養護教諭も、母親も。何かを隠しているのは確実だが、隠さなければならないほどのことなのか。

 そして、河嶋の過去の話とあのときというのは、同じなのか。何もわからない。

 だが、そのわからないものに巻き込まれ始めたのだ。誰も教えてくれないのであれば、自分で調べるしかない。春奈は拳を作ると、力を込めて握った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る