第9話:藤沢 沙良

 夫の亮は誠実だった。誠実で、真面目で、几帳面で。

 ——けれど、私の心の奥の空洞を埋めてくれる人ではなかった。

 彼の優しさは「安心」を与えてくれるけれど、私がかつて啓介と過ごした、あの熱と昂ぶりを呼び覚ますことは一度もなかった。


 だからこそ、私は仕事にのめり込むようになった。総合商社での日々は忙しく、気づけば朝から晩まで案件に追われていた。そんな中で直属の上司となったのが——北村智和だった。


 彼は、どこか啓介に似ていた。

 もっと言えば、美来と出会う前の啓介に似ていた。

 頭の回転が速く、駆け引きに長け、商談の場では相手の懐にするりと入り込み、鮮やかに有利な条件を引き出す。冷静で、論理的で、そしてときに強引なほどの迫力を見せる。

 会議室の空気を自分のものにしてしまうその姿に、私は不覚にも胸をざわつかせた。


 ——ああ、この感覚。啓介を見ていた頃に似ている。


 もちろん、北村は既婚者であり、私にも家庭があった。だからそれ以上を考えるべきではないと、理性では分かっていた。けれど、彼が笑いながら「よくやったな、沙良」と肩を軽く叩いた瞬間、その力強さに心が一瞬揺れてしまった。


 決定的な出来事は、北陸での出張だった。

 新しいデータセンターの建設に関する大型案件。関係各所との交渉をまとめ、最終合意の署名を取り付けるために、私と北村は金沢へ二泊三日の予定で赴いた。


 会議は緊張の連続だったが、北村の采配は鮮やかだった。矢継ぎ早に条件を調整し、相手の不安を巧みに取り除き、最終的にはこちらに有利な契約を引き出した。

 「これで会社は数年分の利益を手にしたな」

 会場を出た北村の目は、達成感に満ちていた。その隣で、私は久しぶりに心が高揚するのを感じていた。


 その夜、祝賀を兼ねて二人で食事をした。北陸の地酒を勧められ、盃を重ねるうちに、私は少しずつ頬が熱を帯びていった。北村も珍しく饒舌になり、仕事以外の話を笑いながらしてくれた。

 「沙良、お前は優秀だよ。こんなに気が利いて、しかも交渉の場でも臆さない。……正直、オレは助かってる」

 その言葉に、胸が震えた。誰かに認められることが、こんなに嬉しいなんて。


 そして、気づけばホテルのロビーに戻っていた。

 エレベーターに乗った瞬間、彼がふいに私の手を握った。

 「北村さん……」

 声を発する間もなく、彼のもう一方の手が私の口を塞いだ。

 驚きと恐怖と、そして抗えない昂ぶりが同時に押し寄せた。


 部屋に入った瞬間、彼は私をベッドに押し倒した。

 「駄目……」と言おうとした唇を、彼の唇が塞いだ。

 抵抗は一瞬だった。次の瞬間、私は彼の求めに応じていた。

 ——それは、亮と過ごすどんな夜にもなかった感覚だった。


 私は女として、精一杯応じてしまった。

 亮では満たされなかった部分を、北村が埋めてくれる錯覚に囚われていた。

 何度も体を重ねるたびに、かつて啓介に抱かれていた頃の歓びが蘇り、胸の奥で凍りついていた何かが解けていくようだった。


 「……啓くん……」

 思わず零れそうになった名前を、私は必死に飲み込んだ。


 夜が更け、静寂が訪れると、罪悪感が一気に押し寄せてきた。

 ——私は何をしているのだろう。

 亮に裏切られたことなど一度もない。それなのに、私は自分から裏切りを選んでしまった。


 北村の寝息を聞きながら、私は目を閉じた。

 そこに浮かんでいたのは、北村ではなかった。

 ——啓介の顔だった。

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