第10話:藤沢 沙良
金沢出張から戻って以降、私は以前の自分に戻れなくなっていた。
北村はまるで何事もなかったかのように仕事を続けた。だが、時折ふとした瞬間に目が合うと、その視線の奥に「知っている」という合図が隠れていた。
やがて彼は、出張先でのあの夜をなかったことにはしなかった。
「少し飲みに行かないか」
「資料の確認を一緒にしておきたい」
そんな口実で私を誘い、気づけばまたホテルに入っていた。
私は抵抗できなかった。
心の奥底に、罪悪感が渦を巻いていることは分かっていた。
——夫を裏切っている。
——私は最低の女だ。
それでも、北村が強引に求めてくるたびに、背筋に走る痺れがあった。背徳的で、許されないと分かっているからこそ、抗えない快楽が生まれてしまった。
亮は、家に帰るといつも疲れ切った顔をしていた。邦銀の仕事は、外から見れば安定しているようで、実際には業務量も責任も重かった。彼は寡黙に耐えていた。
夕飯の席で私に「今日はきつかった」と小さく漏らすその声を聞くと、胸が痛んだ。
——こんな夫を裏切って、私は何をしているのだろう。
だからこそ、亮が私を求めれば、私は優しく抱きしめ、できる限りの愛情を注いだ。
夫を満足させ、少しでも罪滅ぼしをしたかった。
けれど、その一方で、北村に呼び出されれば、私は足を運んでしまった。
「お前が必要だ」
その一言で、私は女としての自分を取り戻すような錯覚に陥った。
亮には与えられない、啓介との日々に似た高揚感。理性では抗えない「啓介の幻影」が、北村を通して蘇るのだ。
——私は、二人の間で引き裂かれていた。
そんなある日、体に小さな異変を感じた。
妙な疲労感、そして胸の張り。最も気になったのは、生理が予定通りに来なかったことだった。
最初は「少し遅れているだけ」と思おうとした。だが、日数が過ぎても訪れない。
胸騒ぎを抑えられず、私は薬局に立ち寄り、妊娠判定キットを買った。
夜、浴室にこもってそれを使ったときのことを、今でも鮮明に覚えている。
小さな窓に浮かんだ二本の線。
赤く、くっきりと。
「……嘘」
手が震えた。
その瞬間、世界が揺らいだ。
頭の中で、亮の顔と、北村の顔と、そして啓介の顔が、ぐちゃぐちゃに入り混じった。
胸の奥からこみ上げてきたのは、歓びではなかった。——激しい動揺と恐怖だった。
「どうしよう……」
声にならない声が漏れた。
私は鏡の前に座り込み、両手で顔を覆った。
罪悪感が一気に膨れ上がり、体を押し潰そうとしていた。
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