ふたつ

 夕方、空が少し赤くなりかけた頃。


 黒姫は、いつものように陸橋の柱に寄りかかって待っていた。


 けれど、どこか様子がおかしい。


 白乃が近づいても顔をあげない。白タイツのつま先、白いストラップシューズが、彼女の厚底ローファーの前で止まった。


「……黒姫ちゃん?」


 顔をあげたその瞳の奥に、どこか怯えたような揺れがあった。


 けれど、口から出たのはいつもの淡々とした声だった。


「なんでもない」


 服の下に見える、包帯の端。


 明らかに、急いで巻いたそれがシャツから浮き上がっていた。


 白乃の心がずんと沈む。


「だめ……だめだよ、そんなの……!」


 声が震えた。


 白乃は黒姫の手をぎゅっと握って、そのまま歩き出す。 


 黒姫は抵抗しなかった。


 ただ、無言でついてきた。


 ──


 2人は街の外れ、薄暗いビルの裏へとたどり着いた。


 人目のない、ひんやりとした場所。


 落ちていたビニールシートの上に、黒姫は静かに腰を下ろす。


 白乃はバッグから、薬局で買ったばかりの湿布と包帯を取り出した。


「……脱いで」


 小さな声。


 黒姫は少しだけ眉をひそめたが、ため息まじりにシャツのボタンを外していく。


 見えてきたのは、雑に巻かれた白い包帯。


 そして、その下から現れた──


 紫に腫れ上がった打撲跡。


 まだ赤みを帯びたまま、骨の輪郭を際立たせていた。


 白乃は目を逸らさなかった。


「……ごめん、見ちゃって」


「……見ていいよ」


 黒姫は視線を横にそらして言った。


「どうせ誰も見ないから」


 その言葉が、痛かった。


 白乃は、そっと包帯をほどいていく。


 風が冷たく皮膚を撫で、黒姫の肩がわずかに震えた。


 無言で、湿布をそっと貼る。


 腫れを避けて、包帯を丁寧に巻いていく。


 1周、2周。


 そのたびに、白乃の指先に黒姫の体温が伝わってくる。


 巻き終えた瞬間、白乃の手が止まった。


「……痛くない?」


 泣きそうな声だった。


 黒姫は、目を伏せたまま、ぽつりと答える。


「痛いよ」


「……っ」 


 涙がこぼれそうになる。


 だけど、そのとき──


 黒姫の手が、白乃の頬をそっとなぞった。


「だから、癒して」


 囁くような声とともに、唇が近づく。


 白乃は目を閉じた。


 触れた唇は、熱かった。


 長く、ゆっくりと、確かめるように──


 重なる時間が、2人の呼吸をひとつにしていく。


 白乃の指が、そっと黒姫のシャツを握った。


 その震えを、黒姫は受け止めるように抱き寄せた。


 キスは、終わらなかった。


 でも、無理に求めるものではなかった。


 ただ、互いの痛みを、形にして残そうとするような。


 やがて、唇が離れた。


 2人の息が重なる。


 黒姫が、白乃の額にそっと自分の額をあてた。


「ありがとう」


「わたし……なんにもできないけど……でも……」


「痛いときに、隣にいてくれるだけで、たぶん、じゅうぶん」


「……うん」


 白乃は、包帯越しに黒姫の腕をそっと撫でた。


 その手は、少しだけ強くなっていた。



 どこにも癒しなんてなかった世界に、


 今、小さな祈りのようなぬくもりが生まれていた。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る