第13話 湖畔での告白

2月の学内発表が成功に終わり、4月になり春の暖かな日差しが戻ってきた頃、リサがエリックに提案した。


「今度の週末、湖に行かない?」


研究室でのコーヒータイムのことだった。


「湖?」


「ええ。映画館では…申し訳ないことしちゃったから、今度はもっとゆっくりできる場所で」


リサの言葉に、エリックは慌てた。


「あ、いえ、あの時は僕が…リサは悪くないよ。」


「とても綺麗な場所なの。エリックなら、きっと気に入ってもらえると思うの。」



週末の午後、春の柔らかな陽射しが水面に反射し、湖畔の公園には穏やかな風が吹き抜けていた。


遠くで子どもたちがアヒルにパンを投げる笑い声が、風に乗ってかすかに届く。


エリックとリサは並んでベンチに座っていた。


二人の間には、紙カップの紅茶と、少し照れた沈黙。


「……こういう日、久しぶりだね。」


沈黙を破ったのはエリックだった。


「うん。研究室にいない週末なんて、不思議なくらい」


リサが微笑みながら答える。


「学内発表は、無事に終わってよかったよ。ありがとうリサ……。でも、僕と湖に来ても退屈にならない?」


「ならない。今日は……あなたといられるなら、それだけでいいって思ってる」


リサの言葉に、エリックは少し目を見開いた。


「……そんなふうに言ってもらえるなんて……」


思わずうつむきかけた彼の横顔に、リサはやさしく微笑んだ。


湖のそばの水面に広がる波紋のように、二人の心も静かに揺れていた。



湖は、風ひとつなく穏やかで、水面は鏡のように空を映していた。


オレンジ色に染まった空と水の境界が溶け合い、世界がやわらかな光に包まれている。


エリックとリサは並んでベンチに座り、しばし無言でその景色を眺めていた。


静けさの中、鳥の声と、遠くで水面に跳ねる小魚の音だけが響く。


リサはそっと横目でエリックの横顔を見た。


彼の眼鏡に映る湖面の光がきらめき、柔らかな表情に見えた。


「ねぇ、ひとつ聞いてもいい?」


静かな声でリサが切り出す。


「ん?」エリックが視線を向ける。


「エリックって……どうして、細胞修復の研究をしようって思ったの?」


その問いに、エリックは少し驚いたように目を瞬かせ、そしてゆるやかに微笑んだ。


「……ああ、その話か。……昔、僕、スポーツばっかりやってたんだ。テニスとかサッカーとか。」


「知ってる、上手だったって聞いたことある。」


リサが頷く。実際、彼女は大学時代にエリックのテニスを見ていたし、去年も改めてその実力を目の当たりにしていた。


エリックは小さく肩をすくめ、目の前の湖を見つめながら続けた。


「高校の時、試合で怪我してさ。長い間リハビリして……そのとき、思ったんだ。

――どうして人の体って、自分で治ろうとするんだろう、って。」


リサは黙って耳を傾けていた。


「それがずっと頭に残ってて。仕組みがわかれば、もっと早く回復できるんじゃないかって思った。

もし僕以外の誰かが怪我したときも……役に立てるかもしれない、って。」


そう言ったエリックの声には、柔らかな熱が宿っていた。


その横顔を見て、リサは小さく笑みを浮かべる。


「……エリックらしいね。」


「え?」


「優しいなって思っただけ。」


エリックは少し耳まで赤くなり、慌てて目をそらした。


「……そんなことないよ。ただ、知りたかっただけ。昔から、ずっとね。」


二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。


湖面には、寄り添う二人の影が静かに揺れていた。



やがて、リサが小さな声で切り出した。


「ねえ、エリック。私……恋愛ってよく分からないの。」


「えっ?」


エリックが驚いた表情で振り向く。


「今まで、人と付き合ったこと、ないの。ちゃんと好きって思ったのも……たぶん、初めて。」


リサの頬が少し赤くなった。この告白は、彼女にとって大きな勇気を必要とするものだった。


エリックは驚いたように彼女を見つめたが、すぐにその瞳を細め、何かを噛みしめるように頷いた。


「……そっか。リサが、僕を選んでくれたってこと、改めてすごく……嬉しい。」


「だから、私、不器用かもしれない。でも、ちゃんと向き合いたいの。あなたのこと」


その言葉に、エリックの胸に小さな痛みが走った。


自分には、まだリサに言っていない過去がある。


――10代の頃、初めての恋と別れを経験した、あの記憶。


(……でも、今は、今だけは――)


「ありがとう、リサ。……僕も、うまく言えないけど、ちゃんと気持ちを伝えていきたい。」


「うん…」


それ以上、言葉は要らなかった。


湖面に映る夕日が、二人を優しく照らしていた。



しばらくして、リサが顔を上げた。


「……ねぇ、エリック。今度の週末、時間ある?」


「うん、たぶん。どうしたの?」


「また、ここに来ない?今度はピクニックでもしながら、ゆっくり過ごしましょう」


エリックは少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。


「……いいね。それ、行こう」


リサの提案に、エリックの心は躍った。二人だけでまた来れるなんて、考えただけで緊張した。



その後、二人はゆっくりと湖畔を歩いた。


風が吹くたび、リサの髪が揺れ、エリックの袖が彼女の指先にそっと触れる。


手をつなぐには、まだほんの少し勇気が足りなかった。


けれど、その”触れそうで触れない距離”が、今は心地よかった。


歩きながら、エリックは心の中で思った。


(僕には、まだ言えないことがある。でも、いつかきっと――全部を伝えたいと思う。彼女となら、ちゃんと向き合える気がするから)


夕日が湖面を金色に染める中、二人の影は寄り添うように伸びていた。


リサの初恋の告白、そして次のデートへの約束。


この日は、二人の関係にとって大きな転換点となった。まだ手をつなぐことはできなかったが、心の距離はこれまでになく近づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る