第5話 恋と甘い幸せ

 その日、わたしの一日は痛みから始まった。

 額に感じた、強烈なデコピンをされたみたいな痛みで目を覚ます。


「いったい……」

「お姉、もう支度しないと遅刻するよ」


 ベッドの上から見上げた先で、妹の明日香が呆れ顔で涼子を見下ろしていた。

 ベリーショートの妹は中性的だけどすごく整った顔立ちをしている。

 背はわたしと違って平均的だし、男っぽい口調とかではないんだけど……。


 でもみんなに王子様って呼ばれているみたい。

 中性的な顔だからかな。

 ……わたしはどうもそんな明日香にデコピンされたみたい。


「え? もうそんな時間?」


 中学の制服を着ている明日香がスマホの画面を突きつけてきた。

 画面には時刻が映っている。


「やば! 遅刻しちゃう!」


 わたしは部屋を飛び出して洗面所に駆け込んだ。

 洗顔の準備をしていると、正面の鏡で明日香が背後に立つ姿が見えた。


「お姉のお弁当、食卓に置いてあるから」

「いつもありがと。妹が料理できると助かるな。愛してるよ」

「やめて、気色悪い。……じゃあ私、もう行くから」

「いってらっしゃい」


 わたしは洗面所を出ていく明日香を見送った。

 身支度を終えて、朝食を食べにリビングへ。


 両親は仕事で早く家を出る。

 だから明日香が出かけるとこの時間帯はわたし一人になる。

 おかずの用意はされているけれど、トーストやスープは自分で用意しなくちゃいけない。


 ……わたしは料理が得意じゃない。

 だからトーストとか粉末スープとか。

 そういう料理の腕がいらないものしか用意できない。


 今日の献立はトースト二枚と目玉焼きとベーコン三枚。

 粉末を溶かしただけのコーンスープ。


 あまりゆっくりしている余裕はない。

 でもそんなことは関係ない。

 どんなときでも食事だけはしっかりと摂る。

 それがわたしの信条。


 朝ごはんを終えて、水玉模様のリュックサックを背負って玄関を飛び出す。

 でも途中で制服のネクタイをつけ忘れていることに気がついて、慌てて部屋に引き返す。

 部屋でしばらくネクタイをいじくり回した。

 でも慌てているせいか、なかなか上手く結べない。

 しょうがないからテキトーにネクタイを巻いた。


 それから改めて家を後にした。

 わたしは学校へと走って行く。

 幸いなことに家から学校までは歩いて十分ほどでいける。

 走れば十分もかからない。


 やがてわたしは学校にたどり着いた。

 校門を駆け抜けて昇降口へと向かう。


 教室前にたどり着いたとき、お手洗いから戻ってきたらしき愛華に出会した。

 ……相変わらず小さくて可愛いな。


「おはよ、愛華」

「おはよう。……遅刻ギリギリね」

「えへへ」

「笑顔で誤魔化さないの。……というかネクタイちゃんとしなさいよ」


 そう言うと、愛華がわたしの首元に手を伸ばしてくる。

 世話が焼ける、なんて言いながらネクタイを締めてくれる。

 わたしは自分でもわかるくらいニンマリと笑ってしまう。

 ……だって嬉しいじゃん。


「なに、じっと見つめてきて」


 愛華が上目遣いで見上げてくる。

 距離が近いということもあって、愛華の小柄な身体を抱きしめたくなった。

 ……もちろんそんなことはしないけど。


「愛華は優しいなって思って」

「見るに耐えなかっただけよ。……はい、できた」

「ありがと。あいし――」


 妹へ言う癖で『愛してるよ』と言いそうになって、慌てて自分の口を手で塞いだ。


「あいし? なに?」

「な、なんでもない。……愛華って言おうとして噛んだだけ」

「? そう」


 ……危なかった。


 それから愛華のあとに続いて教室に入る。

 すると結衣たちに挨拶された。

 それに応えながら、愛華と別れて自分の席に座って……。

 ほどなくして先生が教室に入ってきて朝のHRが始まった。


 遅刻しそうにはなったけど、いつもと同じ一日が始まる。

 ……今日は愛華と何を話そう。楽しみだな。



   ◯



「……涼子に相談があるんだけど」


 それは部活帰りのこと。

 いつものように愛華と夕暮れの廊下を歩いていた時だった。

 唐突に、愛華がそう言った。


「相談? わたしに?」

「……そう言ってる」

「別にいけど。でもわたしでいいの?」

「涼子にしか、頼めないことだから」


 その言葉にわたしはなんだか嬉しくなってしまう。

 だってあの愛華から頼られたんだよ?


 自分を強く持っていて、他人の目なんて気にしない。

 頭もいいし、才能だってある。

 誰かを頼る姿なんて見たことなんてない。


 そんな愛華から頼られて悪い気はしない。

 それに他でもない好きな人からの相談。答えなんて決まっている。


「うん、わかった。聞かせて」

「……ありがとう」



   ◯



 そんなわけで、わたしたちは学校帰りに寄り道をすることになった。

 とはいえこの辺りはそんなにお店がない。

 駅前にあるのも居酒屋やラーメン屋。

 あとはテイクアウトだけのお店くらいしかない。


 わたしとしてはラーメンでもいいけど、愛華がこの時間に食べられるとは思えない。

 一応駅の中に喫茶店はあるけど馴染みがなさすぎるからあんまり……。


 どうしようかと考えて、近所に和菓子屋さんがあることを思い出した。

 たまに行くお店で、小さいけどイートインもできる。

 愛華とも話してそこへ行くことにした。


 校門を出て五分ほど歩いて、わたしたちはそのお店に着いた。

 そして今、店内のイートインコーナーで向かい合って座っていた。

 それぞれの前には注文した和菓子がある。


 わたしが頼んだのは人気メニューの大きないちご大福。

 対して愛華は涼しげな水まんじゅうだった。

 無料で出してくれたお茶を一口飲んで、愛華が口を開いた。


「それで相談っていうのはね、仕事のことなの」

「仕事? それ、ホントにわたしが役立てるの?」

「それは大丈夫。あたしが相談したいのは、……百合漫画のことだから」

「……百合、漫画?」


 そういえば前に愛華が聞いてきたな。

 わたしが描いている漫画は百合かって確認された。

 でも愛華は百合に興味はなかったはず……。

 なにか百合に関してあったのだろうか。


「担当編集にね、言われたのよ。……百合漫画を描いてって。しかも恋愛モノの」

「え? でも愛華、恋愛モノ嫌なんだよね?」

「そうよ、本当は描きたくない。でも描かなきゃいけないの」

「なんで?」

「……漫画家として連載を取るために、よ」


 そこで愛華は俯いてしまう。

 その手は冷たいお茶が注がれた湯呑に触れていて。

 その手に力が入ったのが見ていてわかった。


 まるで言いたくないことをそれでも無理に口に出そうとするような……。

 そんな葛藤が目に見えるようだった。

 愛華にとってはそれだけのことだったのかもしれない。


「……わたしは人間ドラマがメインのファンタジーが描きたい。だから今までそればっかり描いてきた。でも向いてないんだって。恋愛モノの方がうまくいくんじゃないかって」


 わたしは愛華の漫画を思い返す。

 愛華の描く漫画ではあるけどバトルはなくて、どちらかというと昔のファンタジー。

 理論とかはほとんどない、不思議な力という形の魔法が出てくるファンタジーというか。


 そこへ人間ドラマを入れている。

 たえるなら……、ジ◯リのファンタジー作品のような。

 今はもうそういう漫画がないとは言わない。

 最近アニメ化が決まったものだってある。


 その作品も人間ドラマ寄りのファンタジー。

 でもバトルシーンもけっこうある。

 比べて愛華の作品にはバトルが一切ない。


 それが商業的にいいのか悪いのかは、わたしにはちょっとわからない。

 でも登場人物の心情に寄り添ったような愛華の作風。

 それは恋愛モノに合うだろうなってことはずっと思っていた。


 でも愛華が恋愛モノは好きじゃないって言う。

 だからわたしはそれを一度も伝えなかった。

 それを愛華の編集さんはついに言ったらしい。


「……愛華は納得してるの?」

「あたしに恋愛モノが向いているのかどうかはわからない。描きたいとも思えない。だから納得はしてない」

「だったら……」

「でもこのまま描きたいものを描き続けても、連載にたどり着けないことは理解してる」

「……」

「だからあたしは描こうと思ってる」

「なんで?」

「だってプロの漫画家になって多くの人に作品を届けることがあたしの目標だから。それがあたしを救ってくれたものに対する恩返しになると思うから」

「……そっか」


 正直、わたしにはわからない。

 愛華のそれが本当に恩返しになるかなんてわからない。

 でもきっとそれは愛華にとっての真実なんだと思う。


 だから否定することはできない。

 ただそれだけはわかった。


「……愛華がそれでいいならわたしは応援するよ」

「ありがとう」


 愛華は小さく言った。


「それで、わたしに相談って?」

「あたし、百合のこと、何も知らないの」

「一つも読んだことない?」

「……ない」

「まあ、そうだよね」

「……だからね、涼子」

「うん」

「あたしに百合を教えてほしいの」

「……百合を」


 わたしが好きな百合を、愛華にも好きになってもらいたい。

 そう思ったことはある。だからこれはチャンスかもしれない。

 でも教えるなんてできるんだろうか。


 わたしも何度か新人賞に漫画を送っている。

 愛華ほどに真剣ではないけど、百合漫画家になれたらいいなと思っているから。

 でも良い結果を残したことはない。

 才能があるとは思えない。


 そんなわたしが新人賞をとった愛華になにかを教えるなんて……。

 そんなこと本当にできるんだろうか。

 ……たとえそれが好きなことに関することだとしても。


「……自信ないよ」

「どうして?」

「だってわたし、……別に百合が好きってわけじゃなくて、百合が人気になってきてるから投稿作として心証よく思われたくて。だから……ちょっといろいろ百合漫画読んで勉強しただけだし……。間違ったこと教えちゃうかもしれないし」


 自信がなくて嘘をついて誤魔化そうとしている自分は、すごくみっともないなって思う。

 でも失敗はしたくないから、頷くことが怖いんだ。

 それで愛華に迷惑をかけたくない。


「でもあたしよりは断然詳しいでしょ?」

「……そうかもしれないけど、でも」

「お願い、涼子しか頼れないの」


 そこで愛華はわたしの顔を上目遣いで見つめてきた。

 その目は愛華にしては珍しく、なにかに縋るようなものに見えた。

 そんな目で見られたことなんて、今まで一度だってなかった。


 わたしは片腕で口元を隠してしまった。

 顔が赤くなってるの、バレていないよね?

 気持ち悪いくらいニヤけちゃったの、見られてないよね?


 ただでさえ他でもない、愛華に頼られたってことだけで嬉しいのに。

 そんな目で見られたら、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。

 

 そっか……。

 愛華は他の誰でもなく、わたしを頼ってくれているんだ。

 わたしだけに、縋ってくれているんだ。

 ……わたしだけを見てくれているんだ。


 この感情はなにか良くない感じがする。

 でも今はそんなことどうでもよかった。

 自信がないとか、もうどうだっていい。


 愛華が頼ってくれるなら、わたしだけを見てくれるなら。

 きっとわたしはなんだってできてしまう。

 だから――。


「……わたしの知ってることしか教えられないよ?」

「それでいいよ」

「わかった。どこまでできるかわからないけど、精一杯力になれるように頑張る」

「ありがとう。……助かる」

「気にしないでよ」


 そう言うと、愛華はちょっと照れたように微笑んだ。

 その後は談笑しながら和菓子を食べた。

 わたしはいちご大福を一口食べる。


 もちもちの中に甘さが広がって、幸せな気分にさせてくれる。

 微かに感じるいちごの酸味がまた心地いい。

 美味しすぎてすぐに一個食べ終えてしまった。

 幸せは後味を残して口の中から消えていく。


「もう食べ終わったの?」

「うん。……もう一個頼もうかな」


 もう一つ買えば幸せはまだ続く。

 そうやって積み重ねた幸せは強く残ってくれる気がした。


 でもそのときのわたしはまだ気がついてなかった。

 もう一つ食べたらまたもう一つ食べたくなる。

 そうしたらまた買えばいい。


 でも際限なく買えるわけじゃない。

 いつか幸せは途切れる。

 それは絶対なんだ。

 口の中の甘さに夢中だったわたしは、そんな大切なことに気がつけなかった。




 こうして、わたしは愛華に百合を教えることになった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る