104 サイレントパレス

 一歩二歩進む足音が自分のものではないような気がして、階を上がるたびに呼吸が荒くなってくる。


 最上階。隣人の部屋。そして自分の部屋――。


 開いている。玄関ドアがわずかに開き、閑散としたシューズケースに日を重ねている。


 奴は開けたのだ。遂に我が聖域に足を踏み入れたのだ。乱れる鼓動、震える足先。一歩、一歩前へ。


 玄関のドアからそっと中をのぞく。


 キッチンとその先のワンルームは筒抜けで、冷蔵庫は開けっ放し。床や壁はひっかいたような傷がいたるところについている。ワンルームの奥には荷物が散乱している。そして男はいた。しゃがみこんでむしゃむしゃむしゃ何かを食っていたが、やがて立ち上がると床に落ちたズボンやシャツをひっつかみ、引きちぎりだした。男からは声にもならない嗚咽のようなものが聞こえる。自分がやっと作り上げた聖域が引き裂かれていく。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い!


 

「宮澤さん」

 ぎょっとした。まぎれもなく隣人の声だった。

「お帰りなさい」

 奴は振り返った。血走った目。手には包丁。

「死の床へ!!!!」

 

 隣人が走ってきた。鳥肌。とっさにドアを閉めた。奴が開けようとする。力が強い。ドアが開きそうだ。押さえろ、押さえろ。ドアの隙間から刃先が出てきている!

「宮澤ァ! 開けろ宮澤ァ!」

 ポケットのステッカーの感触を感じる。

 

 ――あなたの、ためです

 

 管理人のまなざし。

 

「人を避けて影でうじうじ言ってるだけの蛆虫がア!」

 衝撃。右肩でドアを抑えながらポケットをまさぐる。怒りながら泣きながら。できるだけ関わりたくなかった。でも今は仕方がない、これは仕方がないんだ。

 ポケットからステッカーが出た。シールをはがさないといけない。めくれ、めくれ。今にも出てくるぞ。



「開けろ! 姑息な野郎!」

 手汗でなかなか端っこがつかめない。よし、はがせた。

「なんだまたステッカーか! そんなことでくたばるとでも思――」

 ステッカーを貼った。ドアが急に軽くなった。変なにおいがして慌ててドアを押し込んだ。ドサッと物体が落ちる音。


 

 辺りは静かになった。


 

「宮澤さん、お話が」

 管理人の声がした。だが振り向いた拍子に僕の意識はなくなってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る