第2話

 小舟は静かに岸辺を離れ、黒い川の川面へと滑り出した。しかし、シャロンは漕ぎ出した直後、この性急な行動をすぐに後悔することになった。

 

「だ、ダメだ。全然進まない……!」

 

 オールに力を込める。しかし、どれだけ力を入れても、小舟は思い描いた方向には進んでくれない。まるで、彼女の不器用さを嘲笑うかのように、小舟はゆらゆらと流れに身を任せるだけだった。

 

 必死にオールを漕ぐが、小舟はくるりとその場で回り、来た道を戻ろうとする。せめて黒い影を乗せる前に一度練習しておくべきだったと後悔がよぎるが、小舟はすでに川面を進み出してしまっていた。乗り込んできた二つの黒い影は、何の感情も示さず、ただ静かに佇んでいるだけだった。その無言の圧力に、シャロンは焦燥感を募らせる。

 

「え、えーと……しばし美しい景色をご堪能ください……」

 

 苦し紛れに景色を案内してごまかしてはみたが、黒い影たちは何の反応も示さない。気まずさがより一層と強くなると同時に、いやお前らもなんか反応しろよという他責的な考えも湧いた。しかし、この景色が新鮮なのは自分だけで、この黒い影たちには見慣れた風景であるのかもしれないとシャロンは思い直した。シャロンは再びオールを強く握りしめ、今度は全身の体重を乗せるようにして漕いだ。すると、小舟はわずかに前へ進んだ。手ごたえはあったが、それはあまりにも微々たるものだった。シャロンの未熟な操舵技術では、たった二つの影を運ぶだけでも、一苦労だった。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。シャロンの腕は悲鳴を上げ、額には汗が滲んでいた。空には相変わらずオーロラが揺らめき、時間の感覚は麻痺している。何度も小舟が流されそうになり、そのたびにシャロンは必死に立て直した。

 

「やっと……着いた……!」

 

 長い時間をかけ、小舟をゆっくりと向こう岸の桟橋へと接岸させた。二つの黒い影は、音もなく小舟を降りた。影たちは歩き出すと、そのままオーロラの光の中に溶け込むように姿を消した。

 

 そして、影が消えた場所に残されたのは、小さな光の粒だった。それはまるで、ホタルの光のように儚く、しかし確かな輝きを放っている。シャロンは恐る恐るその光を掌に集めた。すると、光は彼女の手の中で硬い塊となり、それは一枚の銀貨へと変わった。

 

「これが……賃金?」

 

 役割による「対価」は、この銀貨なのだろう。たった一枚の銀貨。それだけのために、これほどの苦労をしなければならないのか。

 

 その日の渡し守の役割は、それだけで終わった。対岸から同じくらいの時間をかけて戻ってくる頃には黒い影たちはいなくなっていた。

 

 シャロンは疲れ果て、桟橋の隅に座り込んだ。

 

「はぁ……もう、クタクタだよ」

 

 シャロンの心は、疲労、不満、そしてこの世界への漠然とした不安といった、様々な感情で溢れていた。それにもかかわらず、彼女の瞳には、ほんのわずかな希望の光が宿る。

 

 なぜなら、この世界で生きるための「切符」は手に入れたからだ。だが、たった一枚の銀貨では、まともに生活することもできない。シャロンは、生きる道筋は見えたものの、この過酷な世界でどう身を立てていくのか、改めてその現実を噛みしめていた。

 

 ◇

 

 銀貨一枚を握りしめ、シャロンは島の中央部のマーケットへと向かっていた。河の岸辺にこの島の案内看板が立っており、それを見ると中央部にマーケットと記載されていたからだ。しばらく歩き進めると、そこは簡素な露店が立ち並ぶ広場へと開けていた。空のオーロラの光が淡く照らす中、店番をする人々は、皆どこか無表情で、声を張り上げることもなく、ただそこに立っている。

 

「す、すみません。あ、あの……食べ物、売ってますか?」

 

 シャロンが恐る恐る声をかけると、露店の店主は無言で、彼女の前に固いパンの塊を差し出した。それはまるで石のようで、とても食べ物には見えなかった。

 

「あ、えっと……もっと、なんか食べられそうなやつ、ないですか?」

 

 店主は再び無言で、今度はパンの端っこ、いわゆる耳の部分を差し出した。シャロンが掌に乗せた銀貨を差し出すと、店主は無表情なまま、その銀貨を受け取った。

 

「え、これだけ? 銀貨一枚で、このパンの耳だけ……?」

 

 シャロンは驚きと失望で、思わず声を上げた。渡し守としてあれほどの苦労をして得た賃金が、これほどの価値しかないのか。この島での生活は、想像していたよりも遥かに厳しいものだと悟った。

 

 その場にへたり込み、仕方がないのでその場でパンの耳をもそもそと食べているシャロンの肩を、誰かが優しく叩いた。

 

「新しい渡し守だよね?」

 

 声のする方を向くと、そこにはシャロンより少し年上に見える、柔らかな笑顔の女性が立っていた。だが、軽快な声色とは裏腹に、あのときの老人や周りの人々のように瞳の奥や雰囲気はどこか空虚なものが感じられた。

 

「あ、あなたは……?」

「案内を役割としているものだよ」

 

 案内役であるという彼女はそう言って、シャロンの持つパンの耳を指差した。

 

「大丈夫。最初はみんなそんなもの。慣れていけばお腹いっぱい食べられるようになるよ」

「そう、なのかな……」

 

 シャロンが不安な表情を浮かべると、案内役の女性は微笑んだ。

 

「さ、行こう。あなたの住む部屋へ案内するから。まずはゆっくり休まないとね」

 

 案内役の女性は慣れた手つきで、マーケットの裏にある狭い路地へとシャロンを導いた。路地は薄暗く、ひっそりとしていたが、彼女の隣にいると不思議と恐怖は感じなかった。

 

 しばらく歩くと、住居のような建物が見えてきた。彼女は建物の一室の扉を開け、シャロンを中へと招き入れた。

 

「ここがあなたの部屋だよ。はい、これ鍵ね。中にあるものは自由に使っていいから」

 

 部屋の中は、驚くほど綺麗に整っていた。壁には花が活けられた花瓶の絵が飾られ、机の上には一輪の花が飾られている。まるで、つい先ほどまで誰かが生活していたかのようだ。部屋全体に漂う生活の温かい残り香と、異様な静けさの不気味さが混ざり合い、シャロンは思わず身震いした。シャロンの戸惑いを横目に、案内役の女性はランプに火を灯した。その温かい光が、部屋全体をそっと包み込んだ。

 

 シャロンは、その温かさに安堵し、疲労が一気に押し寄せた。一日中、小舟を漕ぎ、不安と戦ってきた。そして、初めての賃金で買ったのは、パンの耳だけ。それでも、休むべき部屋があるという安心感はそれに勝るものがあった。

 

「ありがとう……」

 

 シャロンがそう言うと、案内役の女性は微笑み、静かに部屋の扉を閉めた。

 

 シャロンはベッドに腰を下ろした。今日一日の出来事を思い返しながら、彼女は改めてこの島での生活に、そして自分の「役割」に、向き合う決意を固めるのだった。

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