不器用な渡し守と無口な舟

根里あるく

第1章 オーロラと渡り舟

第1話

 静寂の岸辺に、水の流れる音が響いている。

 

 彼女が目覚めると、視界いっぱいに広がるのは、無数の光が揺らめくオーロラだった。赤、青、緑、様々な色が混ざり合い、天を舞う。空はまるで、常に誰かが絵筆を動かしているように、刻々とその姿を変えていた。光のカーテンが織りなす幻想的な景色は、あまりにも美しく、そして現実離れしていた。


「……ここは」

 

 掠れた声が、奇妙なほど静かな空間に吸い込まれていく。水際で、岸辺に濡れたスカートが冷たい。頭の中は、まるで真っ白な紙のように何も思い出せない。ただ名前だけは朧気ながらに浮かんだ。シャロン。自分の名前か確信は持てなかったが、おそらくそうだろうと彼女は判断した。しかしそれ以外、ここに来る前の記憶も、何もかもが抜け落ちていた。自分が何者なのか、どこから来たのか、なぜここにいるのか。答えを探そうとすればするほど、胸の奥から押し寄せる得体の知れない不安に、シャロンは息が詰まりそうになった。

 

 シャロンは立ち上がろうと試みたが、全身に力が入らず、再び砂利の上に崩れ落ちた。体の冷たさだけが、自分が確かに存在していることを伝えてくる。この美しい世界は、もしかしたら自分にとっての終着点なのだろうか?

 

 その時、一人の老人が近づいてきた。その顔には深くシワが刻まれ、何も語らずに彼女を見つめている。老人の目は、凍った湖のように澄んでいて、シャロンの心の奥底を見透かしているかのようだった。

 

「目覚めたんだな」

 

 初めてかけられた言葉に、シャロンは戸惑う。その声は無機質で、少し不気味なものだった。シャロンは体を強張らせ、緊張した様子で老人の方に顔を向ける。老人はシャロンの前に舟を漕ぐために使うようなオールを差し出し、一言だけ告げた。

 

「おまえの役割は渡し守だ」

 

 シャロンは差し出されたオールをただ見つめた。役割? 渡し守? それは一体、何を意味するのだろう。尋ねようと口を開きかけた時、老人は彼女の問いを待たずに言葉を続けた。

 

「この島では皆役割をこなさなければならない。渡し守の役割は黒き影を対岸に運ぶことだ」

 

 老人は、それだけを告げると、再び来た道を戻っていった。シャロンは、彼の背中がオーロラの光の中に消えていくのを、ただ呆然と見送るしかなかった。

 

 手の中にあるオールは、彼女の記憶を呼び起こすものではなかった。しかし、それは間違いなく、この世界で生きていくための「切符」だった。


 オールを握りしめ、シャロンは立ち上がった。全身に残る震えは、この状況がまだ現実ではないかのように思わせる。しかし、掌に伝わる冷たい感触と、砂利のざらつきだけが、自分が確かにここにいることを訴えてきた。老人が消えた方角へと顔を向ける。彼が去った後も、どこか不思議な静けさが残っていた。

 

 この島には、まるで時間が存在しないようだった。空には絶えずオーロラが輝き、太陽も月も見当たらない。朝や夜といった概念が、シャロンの記憶の中だけに存在する、過去の遺物であるかのように感じられた。

 

 シャロンは、老人の言葉を反芻する。「この島では皆役割をこなさなければならない。渡し守の役割は黒き影を対岸に運ぶことだ」。その言葉は、まるで呪いかのように彼女の心を縛り付けた。役割を与えられた。それは、この奇妙な世界で、唯一生きていくための方法だということだろうか。

 

 ひとまず、その小舟とやらを探すために、シャロンは岸辺を歩き始めた。オールは重くもなく、軽くもない。まるで彼女の体の一部であるかのように、自然と手に馴染んだ。記憶は戻らない。自分が何者だったのかも分からない。しかし、このオールだけが、彼女をこの世界に繋ぎとめる唯一の糸だった。

 

 歩き進めるうち、シャロンは自分の横を流れる水面が、あまりにも広大であることに気づいた。そこにあったのは、深淵のように黒く、底が見えない大河だった。その端の桟橋に、小舟が一艘停泊している。そして、その周辺には、人影のような黒い塊がゆらゆらと揺れながら集まっているのが目に留まった。

 

「あれが、私の仕事場所……?」

 

 シャロンは息をのんだ。河の水は深淵のように黒く、わずかな光さえも飲み込んでしまうかのようだ。水面は鏡のように滑らかで、空のオーロラを映し出していた。その美しさの中に潜む、底知れない不気味さに、シャロンは背筋が凍るのを感じた。

 

 桟橋に近づくにつれ、あの老人の言葉が真実味を帯びてくる。にもかかわらず、シャロンの意識はどこか現実感のない、浮遊した感覚の中にあった。その心境を映したかのように覚束ない足取りだったが、シャロンはついに桟橋に到達した。

 

 シャロンが黒い影たちを恐る恐る観察すると、それらは皆一様に顔がなく、言葉も発していない。ただゆらゆらと揺れながらそこに存在していた。不気味ではあったが、不思議と恐怖はなく、そういうものであるとシャロンは納得していた。また、黒い影たちもシャロンに気づいたのか、僅かに整列しているようにも見えなくもない。

 

 シャロンはしばらく影たちの様子を見ていたが、小舟のそばに集まる黒い影たちを待たせているような居たたまれない気持ちになり、意を決して小舟に乗り込んだ。

 

 小舟の上に立ってみると、不思議と馴染む感覚があった。シャロンは、自分の足元を見つめた。この小舟は、このオールは、そしてこの世界は、一体何なのだろう。

 

 ほどなくして、黒い影が二つほど小舟に乗り込んできた。

 

 彼女の記憶は、まだ空白のままだ。しかし、このオールが、彼女をこの世界に繋ぎとめる「切符」であることは、確かな事実だった。

 

「……やるしかないか」

 

 シャロンは自分の意志で、オールにわずかに力を込めた。すると、小舟は静かに川面を滑り始めた。彼女はまだ、自分が何者なのかを知らない。しかしこの時から、彼女の「役割」、そして「自分」を探す旅が、静かに幕を開けたのだった。

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