第13話 エピローグ
作戦翌日の午前、俺たちはまたあの会議室に集められていた。
第三作戦会議室。
昨日と同じ壁、同じスクリーン、同じような顔ぶれ。
ただひとつ違うのは、配管区画の泥臭さがまだ靴底に残っていることくらいだ。
「では、昨日の第五層事案について、正式な事後ブリーフィングを行う」
前に立つ久我中佐の声は、いつものように乾いている。
スクリーンには、第七方舟の断面図。
赤く点滅していた第五層配管区画は、今は黄色いハッチングになっている。
「まず結論からだ。
今回の事案は、“設備障害に付随する局所汚染の発生”として処理される」
淡々と言い切られた。
(やっぱりそう来るか)
予想はしていたが、実際に聞くと胃のあたりがざらつく。
「市民向けの公式発表はすでに行った。
老朽化した配管の破損、および処理水ラインに混入した外来物質の除去──そういう建付けだ」
隣で〈クロガネ〉が微かに舌打ちしたのが聞こえた。
「ただし、軍内部、特にここにいる者に対しては別の前提で話す」
断面図が切り替わる。
第十二ブロック崩落エリアと、第五層を繋ぐ一本のラインが浮かび上がった。
「今回確認されたのは、ネフ──NHEが“地下構造物の内部”を通って侵入するプロセスだ。
前回の崩落エリアで観測された“沈降現象”と合わせて考えると、
“地上から押し寄せる敵”だけを想定した従来の防衛線は、もはや不完全だと言える」
室内の空気が重くなる。
「第七戦術魔女隊および第七随伴護衛班は、その“内部侵入”を初動で察知し、
処理水ラインを介した方舟内部への汚染拡大を抑止した。
この点については、作戦本部として最大限の評価を与える」
そこだけは、はっきりと言った。
後方の参謀の一人が、わずかに不服そうに眉をひそめる。
「設備障害レベルの話に魔女を使うのはコスパが悪い」とでも思っているのかもしれない。
「だが同時に、この事案は極めて政治的な意味も持つ」
久我が、少しだけ声のトーンを落とした。
「“地下都市の内部にまでネフが侵入している”という事実は、
方舟の統治構造そのものを揺るがせかねない情報だ。
よって、現時点では機密指定とし、外部には出さない」
誰も口を開かない。
開いたところで、何を言っても変わらないことは分かっている。
「市民は、“方舟の外”で戦争が行われていると信じている。
その前提が崩れたときに何が起こるか──」
久我は、スクリーンではなく俺たちの顔を見た。
「それは、君たち自身が最前線で見ることになるだろう」
(外でも中でも、結局血を見るのは俺たちってわけか)
誰かの苦い冗談が頭の中に浮かんだ。
「今回の教訓をまとめる。
第一に、ネフは“地上”と“地下”を区別しない。
第二に、方舟のライフラインそのものが、ネフの“回廊”になりうる。
第三に、その回廊を“縛り、焼き、切る”役割を担えるのは、現状では魔女隊と、その随伴戦力のみである」
目の端で、〈ルミナ〉と〈カルマ〉、〈シロガネ〉、〈クロガネ〉の表情を確認する。
四人とも、何かを飲み込むように黙っていた。
後方の技術将校が手を挙げる。
「中佐。
今回の“ネット”の運用例を踏まえれば、配管内部に専用の“結紮装置”を設置する案も──」
「検討はしている」
久我が短く遮る。
「だが、現時点で“魔法と同等の柔軟性”を機械で再現するのは不可能だ。
それが可能になるまでは、“人力”に頼らざるを得ない」
人力。
つまり、魔女の頭と、護衛兵の手だ。
「最後に、各員への評価と今後の運用について」
スクリーンの表示が切り替わり、文字だけのリストになる。
「〈ルミナ〉。
狭小空間での高精度照射、および〈カルマ〉との協調行動は期待以上だった。
ただし、出力調整の負荷が高かったことを踏まえ、今後は“糸の光”に特化したメニューを追加する」
「〈シロガネ〉。
結界の局所展開と、内部反射の制御は適切だった。
ただし、長時間の維持による疲労が顕著だったため、持久力強化と負荷分散の方法を検討する」
「〈クロガネ〉。
今回は待機と抑えに回る局面が多かったが、それでも前衛プレッシャーの維持という意味で重要な役割を果たした。
“切り込み”だけでなく、“構え続ける”ことの価値を理解している点を評価する」
〈クロガネ〉が、わずかに居心地悪そうに顔をそむける。
「〈カルマ〉。
ネフの流れの感知と、配管内部での“網”の展開は、作戦成功の鍵となった。
一方で、負荷管理はギリギリだった。
危険ラインに近づいたときの自覚と申告を、今後の課題とする」
「……はい」
〈カルマ〉の返事は小さかった。
「随伴護衛班。
特に、篠原一等兵」
不意に名指しされ、背筋が伸びる。
「〈カルマ〉の“ブレーキ役”としての初運用は、評価に値する。
“止めるべきか突き進ませるべきか”の判断は、現場の者にしかできない。
今回、その責任を引き受けたことを、作戦本部として正式に認める」
「ありがとうございます」
形式的な言葉しか出てこない。
「──同時に、忠告もしておく」
久我は視線を少しだけ鋭くした。
「今後も同種の事案は増えるだろう。
そのたびに、“自分だけが止められる”と思い込むな」
胸の奥を軽く殴られた感覚。
「ブレーキ役は、ひとりでやるものではない。
周囲に“止めてくれる者”を持て。
それができなければ、いずれ君自身が“流れ”に飲み込まれる」
「……肝に銘じます」
本気でそう思った。
「以上だ。
質疑は後日、個別に受け付ける。
各員、通常勤務に戻れ」
◇ ◇ ◇
医療区画。
昨日に比べれば、落ち着いた空気が流れていた。
簡易ベッドに腰掛けたアヤネの頭には、もうセンサーコードは繋がれていない。
「……後遺症は?」
ベッドの端に座りながら聞く。
「頭が重いのと、少しだけ“残響”がします」
アヤネ・クジョウは正直に答えた。
「残響?」
「はい。
昨日の“下のほう”からの声の、薄い残り香みたいな。
はっきり聞こえるわけじゃないですけど、たまに思い出したみたいにざわざわします」
「それは……」
危険と言うべきか、想定内と言うべきか迷う。
先に口を挟んだのは三島だった。
「予想の範囲内よ」
彼女はタブレットから目を離さずに言う。
「一回きりなら、そのうち薄くなる。
問題は、同じ場所に何度も潜ると“どんどん上書きされていく”ってところ」
「上書き?」
「簡単に言うと、“下のほう”のノイズのほうが自分の声より大きくなってくるのよ」
さらっと嫌なことを言う。
「だから、これからは潜る頻度と期間をちゃんと管理する。
今回だってギリギリなんだからね」
「ギリギリは褒め言葉かと思ってました」
「医者にとっては悪口よ」
三島はうんざりしたように肩をすくめた。
「“死んでないからセーフ”って発想は、戦場ではまあ分かるけど、こっちとしては心臓に悪いの」
「すみません」
アヤネが頭を下げる。
「でも、あそこまでやらなかったら──」
「分かってる」
今度は俺が遮った。
「だからこそ、“次も同じようにやれる”って思うなって話だ」
「……分かってます」
返事は素直だった。
それでも、その目の奥にはまだ“深く潜れるかもしれない”という好奇心がちらついている。
「アヤネ」
名前を呼ぶ。
「“戻れなくなるよ”って声、覚えてるか」
「覚えてますよ」
アヤネはあっさりと言った。
「多分、あれは“善意”のほうです」
「善意?」
「“落ちてこい”とか“沈め”は、あっち側の誘いですけど。
“戻れなくなるよ”って声は、むしろ人間側の残りかすだと思います」
その分類に、ぞっとする。
「だからって聞き分けがいいとは限らないですけどね。
“ここから先はやめとけ”って言葉ほど、逆に踏み込みたくなるときもあるし」
「だからブレーキが必要なんだろうが」
思わず額に手を当てる。
「……分かった。
今後、“下に潜る回数”を増やすなら、そのたびに俺への報告を義務にする」
「報告書ですか?」
「口頭でいい。
“今どのくらいざわざわしてるか”“どっち側の声が大きいか”。
毎回、言語化させる」
アヤネは少し目を細めた。
「それって、“私の頭の中を覗く”ってことですよ?」
「全部じゃない。
覗きたいわけでもない。
ただ、“自分で自分の状態を説明できるかどうか”は、ブレーキの効き具合を見る目安になる」
少し間があってから、アヤネはふっと笑った。
「了解しました、“ブレーキ役”さん」
わざとらしく敬礼する。
「ちゃんと、毎回“車検”受けに来ます」
「それは整備士の仕事だろ」
「細かいことはいいじゃないですか」
三島が盛大にため息をついた。
「……まあ、あんたたちがそうやって茶化せる間は、まだマシね。
本当に手遅れになるときは、たいてい笑い話にもできなくなるから」
◇ ◇ ◇
医療区画を出ると、廊下でリナとレイに会った。
「悠真さん!」
リナ・サクマが小走りで近づいてくる。
「アヤネ、大丈夫でした?」
「大丈夫だ。茶化してくる余裕もある」
「それなら、よかったです」
リナは胸に手を当ててほっとした表情を見せた。
「家族から連絡きたって聞いたぞ」
「はい」
リナはポケットから端末を取り出す。
「ニュース見て、“配管事故って、あんたのところ大丈夫なの?”って。
“そっちはもっと外のほうだから平気だよ”って適当にごまかしました」
「……まあ、そのほうがいいだろうな」
真実をそのまま伝えても、きっと誰も安心しない。
「ズルいですよね」
リナがぽつりと言う。
「向こうは、“地上で戦ってる”って信じて心配してくれてて。
こっちは、“地下の中でも戦ってる”って話を隠して。
それでも、“守ってる”って言っていいのか、自信なくなります」
「守ってるだろ」
言葉が先に出た。
「少なくとも、“ここから先は渡さない”って決めて踏ん張ってる分だけ、守ってる。
あとは、それを知るか知らないかの違いだ」
「でも──」
「お前の家族は、“配管事故”って文字しか知らないまま、“今日も無事だった”って安心してるんだろ」
「……はい」
「だったら、それでいい」
自分に言い聞かせるみたいな言い方になった。
「全部知ってもらわなきゃ守ったことにならない、なんてことはない。
知られないまま守られるものも、たくさんある」
レイ・シロサキが、静かに口を開いた。
「情報と安心は、必ずしも比例しませんから」
「レイ?」
「軍は、時に真実を隠す。
それが正しいとは限りませんが、“隠さなければ守れないもの”もあるのは事実です」
レイの視線は、どこか遠くを見ていた。
「わたしは、それ自体を完全に否定するつもりはありません。
ただ──」
「ただ?」
「その“隠す/見せる”の線引きを、現場の人間の声抜きで決められるのは、少し納得がいかないだけです」
珍しく、感情の棘がわずかににじんでいた。
「だから、少なくともわたしは、
“ここまで隠したくない”“ここから先は言えない”って線を、自分の中に持っておきたい」
「難しい線だな」
「難しくても、持っていないよりはマシです。
……それに」
レイはわずかに口元を緩めた。
「“隠される側”の市民だけでなく、“隠している側”のわたしたちもまた、誰かに守られていると思いたいですから」
「誰かに……?」
「はい。
例えば、“現場ではちゃんと分かっている”と信じられる指揮官とか。
“ブレーキをかけてくれる”護衛兵とか」
急に話を振られて、思わず視線をそらしてしまった。
「……ハードル上げるな」
「上げておかないと、簡単に潜っていく人たちが多いので」
レイの静かな皮肉に、リナが苦笑する。
「セラが聞いたら、“わたしの監視対象が増えるじゃない”って怒りそうですね」
「そのセラはどこ行った」
「訓練場ですよ。
“ちゃんと体を動かさないと、変な夢見そうだから”って」
「あいつらしいな」
◇ ◇ ◇
訓練場の片隅では、セラ・ミナヅキがサンドバッグを殴り続けていた。
拳ではなく、軽めの模擬剣。
いつものぶっ壊しそうな勢いではなく、一定のリズムで打ち込んでいる。
「珍しいな。
素振りじゃなくてサンドバッグ相手か」
「こっちのほうが、“柔らかいもの”を斬ってる感覚に近いから」
セラは手を止めずに答えた。
「“ネフの根”ってさ、生き物っていうより、ぬるいゴムみたいな切れ味なのよ。
嫌じゃない?」
「例えが最悪だ」
「でしょ」
何度か打ち込んでから、ようやく剣を下ろす。
「で、ブレーキ役さん。
久我さんから何か言われた?」
「“ひとりで止めようとするな”と」
「正論ね」
セラは、タオルで汗を拭きながら笑った。
「わたしからも言っとくわ。
“あんたが止まれなくなったときに止める役”、ちゃんと用意しときなさい」
「お前がやるのか」
「候補のひとりではあるわね」
セラは真顔で言った。
「リナもレイもアヤネも、あんたのこと見てるけど、あの子たちは基本“背中を押す側”だから。
わたしぐらいは、“引きずり戻す側”でいないとバランス悪いでしょ」
「自分で言うか、それ」
「言うわよ。
隊長だもの」
その言葉には、変な照れもなかった。
「だからね」
セラは剣の切っ先で床を軽く突く。
「あんたが“もう無理だ”って言ったときは、ちゃんと信じなさい」
「どういう意味だ」
「“まだいけるだろ”って背中を押してくる大人も多いから。
そういう声ばっかり聞いてると、自分の危険ラインが分からなくなるの」
アヤネが言っていた「七割ライン」の話が頭をよぎる。
「逆に、“もうちょっといける”って言ったら?」
「そのときは殴る」
セラは即答した。
「アヤネと同じよ。
自分でアクセル踏もうとしてるやつの言葉なんて、信用しない」
「徹底してるな」
「そうしないと、“第一章の終わり”で全滅エンド迎えちゃうでしょ」
さらっとメタなことを言う。
「わたしは嫌だからね。
せめて最終巻くらいまでは生き残るつもり」
「ずいぶん長期連載のつもりだな」
「文句ある?」
「いや」
ない。
あってたまるか。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
第七方舟の礼拝室は、思ったより広かった。
正式な宗教施設というよりは、「誰にでも開かれた静かな場所」といった風情だ。
ベンチが並び、簡素な祭壇。
壁には、ネフが現れる前の地上の風景写真がいくつか飾られている。
空の青さが、何だか嘘くさく見えた。
「おや」
声をかけられて、振り向く。
白い衣。胸元の紋章。
一ノ瀬カナメが、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「珍しいですね。
あなたがここに来るなんて」
「ただの通りすがりだ」
「礼拝室を“通りすがり”に使う人は、あまり多くないですよ」
一ノ瀬はベンチの端を軽く叩いて、座るよう促した。
「警戒はお好きに。
ここで銃を抜く人も、そうそういませんから」
「抜くつもりはない」
少し距離を取って腰掛ける。
「昨日の件、どう見た」
「“老朽化した配管の破損”の件ですか?」
一ノ瀬は悪びれもなく言った。
「軍の発表では、そういうことになっているようですが」
「お前のところには、本当の話がもう流れてるんだろ」
「噂話程度には、ですね」
一ノ瀬は肩をすくめた。
「第五層でネフの“気配”がしたこと。
魔女隊が投入され、“何か”を縛って焼いたこと。
──そして、崩落エリアと繋がっているかもしれないこと」
中途半端な情報だ。
それでも、知られたくない部分にだけピンポイントで触れている。
「誰から聞いた」
「“誰か”でしょうね」
一ノ瀬は曖昧に笑った。
「こういう話は、完全に封じようとすればするほど、隙間から漏れてくるものです」
「壊れそうな奴の隙間を狙って、入り込むんだろ」
「ひどい評価ですね」
まったく否定しなかった。
「でも、それはある意味、医者と同じです。
“ひびが入っている場所”に薬を塗るか、毒を流し込むかの違いがあるだけで」
「お前のは毒寄りだ」
「味だけで判断しないでください」
一ノ瀬は、祭壇の方へ目を向ける。
「方舟は、“巣”の上に建っている」
静かな声で言った。
「それは、わたしたちの教義とも矛盾しません。
罪を重ねた人類は、自らの罪の上に箱舟を浮かべ、
その底から染み出すものに追われながら生きている──」
「それを“神の罰”だと?」
「“神の結果”とだけ言っておきましょう」
一ノ瀬は微笑んだ。
「ネフが“何か”は、わたしにも分かりません。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは──」
こちらに視線を戻す。
「あなた方が、いま“方舟の中”を戦場にし始めている、ということです」
図星だった。
「地上だけでは足りず、地下の中でも“浄化”を始める。
それ自体は、方舟にとって悪いことではないかもしれない。
ただ、そのたびに“誰が沈み、誰が残るか”を決めるのは、やはり人間だ」
「当たり前だ」
「その“当たり前”に耐えられなくなったとき──」
一ノ瀬は、あの日と同じ言葉を口にする。
「“それは誰のせいか”を一緒に考える場所が、ここだというだけです」
「……あいにく、今はまだ自分で考えられる」
「それは素晴らしい」
一ノ瀬は、本気で嬉しそうに笑った。
「どうか、その力を長く持ち続けてください。
あなたが“自分で考えるのをやめた”ときこそ、本当に危険ですから」
「そのときは、お前のところには行かない」
「どこでも構いませんよ」
意外な答えだった。
「誰かと一緒に考えられるなら。
例えそれが、わたしの嫌いな軍人や、わたしが信じない神であってもいい」
その言葉のどこまでが本音なのか、測りかねる。
「ただ──」
一ノ瀬は少しだけ目を細めた。
「方舟の“下”で伸びているのがネフの回廊だけでなく、
“あなた方の心のひび”の延長でもあることだけは、忘れないでください」
何かを言い返そうとしたが、ちょうどその時、アナウンスが礼拝室の静寂を破った。
『第七戦術魔女隊随伴護衛班、篠原一等兵。
作戦本部まで出頭せよ』
「……タイミングがいいな」
「こういうときだけは、神様を信じたくなりますね」
一ノ瀬が笑った。
「どうか、お気をつけて」
その言葉を背中に受けながら、礼拝室を後にした。
◇ ◇ ◇
作戦本部の一室。
前回のブリーフィングとは違い、ここには久我中佐と俺しかいなかった。
「急に呼び出してすまないな」
「いえ」
部屋の中央には、地上と地下を重ね合わせた立体図が浮かんでいる。
第十二ブロック崩落エリアと第五層配管区画を結ぶライン。
その先に、いくつもの“枝”が伸びていた。
「分析班からの報告だ」
久我が、数本のラインを指し示す。
「崩落エリアからさらに下へ、ネフの反応が薄く続いている。
それがどこに繋がっているかは、まだ分からない」
「他の方舟か、地上の別の巣か」
「あるいは、もっと別の何かか」
久我は首を振る。
「いずれにせよ、“回廊”があることだけは確かだ。
おそらく、この方舟だけの話ではない」
「……他の方舟は知ってるんですか」
「知らないふりをしているか、気づいていないか、どちらかだろう」
それが一番厄介だ。
「お前に見せたいのは、こっちだ」
久我が図を切り替える。
今度は第七方舟内部の断面。
居住区、工業区、第五層、その下。
さっきの“ネフの回廊”の線と、方舟内部の配管・アクセスシャフトが、複雑に交差している。
「これは、“人間側の通路図”だ」
久我が言う。
「ネフの回廊に対して、我々が使える通路はここだけ。
魔女隊と護衛班が実際に動ける“線”だ」
その線は、ネフの黒い回廊に比べて、情けないほど細く、途切れ途切れに見えた。
「今回、〈カルマ〉とお前たちは、その細い線で“血管を結ぶ”ことに成功した。
だが、それはあくまで一本分だ」
「これから、もっと増えるってことですか」
「そうだ」
久我ははっきり頷いた。
「地上だけでなく、方舟内部にも“戦場”が増える。
魔女隊は、“外を取り戻す戦力”であると同時に、“中を守る防波堤”にもなっていくだろう」
あまりに当たり前の未来予測なのに、現実として突きつけられると、喉の奥が焼ける。
「お前に聞きたいのは、ひとつだ」
久我が俺の方を見る。
「それでも、お前は“護衛”を続けるつもりがあるか」
「……辞めろと言われても、今すぐには降りられません」
正直な答えだった。
「俺が降りたところで、誰か別のやつがあいつらの肩を掴むだけです。
そいつがちゃんと止めてくれるかどうかは、分からない」
「その可能性はあるな」
「だったら、まだ今は俺がやるべきだと思ってます」
自分でも驚くくらい、迷いは少なかった。
「ただ──」
言葉を探しながら続ける。
「“護衛兵”として魔女たちの背中を守るだけじゃ、きっと足りないとも思ってます」
「どういう意味だ」
「魔女たちが、いつか“魔女じゃなくてもいい場所”に降りられるようにすること。
そのための“階段”を探すのも、俺たちの仕事だと思うんです」
久我が、少しだけ目を細めた。
「階段、か」
「はい。
ネフの回廊みたいに、“下へ沈む道”じゃなくて。
自分で降りることができる階段」
言葉にしながら、自分でも驚いていた。
こんなに具体的な形で、頭の中にあったとは思わなかった。
「それが現実的かどうかは、まだ分かりません。
でも、“決戦兵器として戦場で使い潰されて終わる”以外の終わり方を、ちゃんと想像していたい」
俺は、地上の焦土と地下の断面図が重なった立体図を見上げる。
「それが、俺の新しい目標です」
しばらく沈黙があった。
久我は腕を組んだまま、何かを計算しているようだった。
「……いいだろう」
やがて、短く言った。
「その“階段探し”を、作戦本部として公式に認めるわけにはいかない」
「でしょうね」
「だが、非公式にはためらう理由はない。
どうせ現場は、命令に書かれていない仕事を山ほどやる」
それは、半分皮肉で、半分本音だ。
「ただし、ひとつだけ約束しろ」
久我が指を一本立てる。
「階段を探すために、“今ある線”を捨てるな」
「……ネフの回廊を潰す仕事は続けろ、ってことですね」
「その通りだ」
正論以外の何物でもない。
「分かってます。
今ある線を守りながら、その先に階段を見つける方法を考えます」
「欲張りだな」
「俺、欲張りなんで」
久我が、珍しく口元だけ笑った。
「その欲張りが、どこまで持つか。
せいぜい見せてもらおう」
◇ ◇ ◇
作戦本部を出て、人気の少ない廊下を歩く。
壁の向こうには、第七方舟の“血管”が走っている。
水と空気を運ぶ配管。
ネフの回廊になりかけていたライン。
アヤネが張った“網”。
リナの光が通った道。
レイの結界が蓋をした場所。
セラが構え続けていた足場。
(全部、線だ)
俺たちが歩く通路も、配管も、エレベーターシャフトも。
上へ下へ、外へ内へ、方舟を貫いている線。
そして、その線のどこかに、“降りるための階段”も紛れているはずだ。
魔女たちが兵器じゃなくなれる場所に続く階段。
俺自身が“ブレーキ役”じゃなくても生きていける場所に繋がる階段。
「簡単じゃないな」
苦笑が漏れる。
ネフの回廊は、放っておけば勝手に太くなっていく。
こっちの線は、意識して引き続けないとすぐ途切れる。
だからこそ、やる価値がある。
『第三章までには死なないでくださいね』
昔、誰かが冗談で言っていた台詞を思い出す。
第三章どころか、まだ第一章の終わりだ。
ここで躓くわけにはいかない。
ふと、頭の中に浮かぶ光景があった。
焦土の空。
崩れ落ちたビル群。
その上を漂うネフの黒い影。
そして同時に、地下の配管区画。
狭い足場。
白濁した処理水。
鎖の網。
そこを通っていく細い光の糸。
地上と地下。
空と血管。
鎖と光。
それら全部が、一本の線で繋がって見えた。
(これは、まだ最初のページだ)
プロローグで何度目かの出撃に出て、
第七方舟の中のネフと初めて真正面から向き合って、
まだようやく、“何を守りたいのか”を言葉にしただけ。
ここから先は、もっとひどいものを見るだろう。
もっと理不尽な線引きを押し付けられるだろう。
もっと深いところに沈んでいかなきゃならないかもしれない。
それでも──
「全部見てやるよ」
小さく呟く。
ネフの回廊も、方舟の中のひびも、魔女たちの背中も。
そして、自分がどこで折れるのかも。
それを全部見た上で、
それでもまだ、“魔女を兵器のまま終わらせない”って言えるかどうか。
その答えを探す旅が、今始まったばかりなんだと思う。
廊下の先には、いつもの兵舎区画がある。
その向こうには、眠りかけている魔女たちがいる。
起床アナウンスが流れるまでの、わずかな静寂がある。
俺は、その静寂に向かって歩き出した。
第一章のページを、ひとつめくり終えた感覚を胸の奥に抱えながら。
---------------------
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。★やフォロー、ひとこと感想などいただけると、続き執筆の大きな力になります。
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