第12話
シャフトの縁から覗き込むと、そこは真っ黒な縦の穴だった。
見慣れたコンクリートと金属の“人工物”のはずなのに、その暗闇は、地上の夜よりずっと生き物じみて見えた。
「降りるぞ」
隊長の声が、やけに遠くに聞こえる。
縦穴の内側には、メンテナンス用の梯子と簡易足場が螺旋状に取り付けられていた。
「魔女隊は中央。
前後に護衛一名ずつ。
〈カルマ〉の真横は篠原、お前だ」
「了解」
言われなくても離れるつもりはなかった。
〈カルマ〉はシャフトの縁に足をかけ、ちらりと下を見た。
「……うわ。
これ、落ちたらネフと一緒に茹でられそうですね」
「そういう想像力は今いらない」
背中に手を添えて、梯子へと押し出す。
先行する偵察兵が下へ降りていき、その後ろにアヤネ、そのすぐ上に俺。
他の魔女たちと護衛が間を埋める形だ。
鉄梯子の冷たさが、手袋越しに伝わる。
下へ降りるほど、空気が重くなっていく。
「……湿度、上がってますね」
〈シロガネ〉の声が無線に乗る。
「下層の廃棄物処理槽の近くだからな」
隊長が答える。
「本来なら立入禁止区画だ。
ネフにとっちゃ、居心地のいい温室ってことだろう」
「温室ってレベルじゃねえだろ」
誰かがぼそっとこぼした。
俺も心の中で同意する。
数十メートルは降りただろうか。
ようやく、次の点検フロアが見えてきた。
薄い金属足場が、縦穴の内側をぐるりと一周している。
「一旦ここで編成を整える。
周囲警戒」
隊長の指示で、俺たちは足場に降り立った。
下を覗くと、まだまだ深い。
耳鳴りはさらに強くなっていた。
〈カルマ〉が、柵にもたれて目を細める。
「……ノイズの“層”が変わりました」
「層?」
「地上から聞こえる“ざわざわ”と違って、“ねっとりした”感じです。
ああ、なんか……ネフに“漬かってる”みたいな」
比喩のセンスが悪いのか、状況が悪いのか、そのどちらもか。
「方向は?」
「下です。
でも、さっきの“開口部”ほど一点じゃない。
このシャフトの内側ぜんぶから、じわじわ上がってきてる感じ」
「……シャフトそのものが“血管”にされてる可能性があるな」
後方の技術将校が唸る。
『その推測は、こちらの解析と一致している』
久我の声が重なった。
『ネフは配管内部の流体に乗って移動していると考えられる。
ここは、その“幹線”だ』
「じゃあ、ここで叩けば──」
『“方舟”にダメージが行く』
先回りするように否定された。
『だからこそ、局所的な“結紮”が必要だ。
血管を全部切り取るのではなく、“縛って”流れを変える。
それが〈カルマ〉の役割だ』
「血管を縛るねえ……」
〈クロガネ〉が肩を回す。
「失敗したら壊死しそう」
「失敗できないって意味では、いつも通りだ」
そう言いながら、俺自身も喉が渇いているのを自覚していた。
「〈カルマ〉、ここから先は慎重に出力を上げろ。
“どこを縛れば一番効くか”だけ、探れ」
「はい」
〈カルマ〉が深呼吸をする。
鎖の気配が、足場の下へと垂れていく。
「……一本じゃない」
顔をしかめる。
「“太い流れ”が三本。
それぞれ違う方向から上がってきて、このシャフトの真下あたりで混ざってる。
たぶん、その下が“たまり場”になってます」
「たまり場、ね」
〈クロガネ〉が呟く。
「根こそぎひっくり返したくなる単語だわ」
「ひっくり返したら、上も一緒に吹っ飛ぶ」
隊長が冷静に返す。
「〈カルマ〉、その“三本”のうち、一番太いのはどの方向だ」
「……左下です。
シャフトの壁に沿って来てる感じ」
アヤネが左側の壁を指差す。
そこには大口径の配管が並び、その一本だけが微かに黒ずんでいた。
「ルートを確認しろ」
技術将校が端末を操作する。
「左側第三配管……処理水返送ラインだな。
第六層廃棄物処理槽から上層の再処理設備へ。
そこが本線になってるとすると──」
『方舟の“排泄器官”をネフに握られてる、というわけだ』
久我の声音に、わずかな苛立ちが混ざる。
『〈カルマ〉、そのラインを“結ぶ”ことは可能か』
「やってみます」
即答だった。
〈カルマ〉の足元から、鎖が壁に向かって伸びる。
パイプの表面で見えない輪を作り、その内部をぐるりと締め付けていくイメージ。
そのときだった。
突然、足場全体がびくんと揺れた。
「なっ──」
思わず柵を掴む。
金属が軋み、どこかで水の流れる音が急激に変調した。
「配管内圧、変動!
処理水ラインの圧が──上がってる!?」
技術将校が悲鳴を上げる。
「〈カルマ〉、いったん止めろ!」
「待ってください、今少し締めれば──」
「圧力リミットを越える!」
ほぼ同時に叫ぶ。
〈カルマ〉の鎖が、さらにわずかに締まった感覚がした。
その瞬間、パイプの継ぎ目から水が噴き出した。
「っ──!」
冷たい水しぶきが顔面を打つ。
しかし、根本から吹き出してきたそれは、ただの水ではなかった。
白濁した液体に混じって、黒いものがうごめいている。
ネフだ。
処理水と一緒に配管内を流れてきたネフの“カス”が、そのまま溢れ出している。
「後退!」
隊長の叫びに合わせて、俺たちは足場の中央に下がった。
吹き出したネフの塊が床に広がり、ぐずぐずと形を作ろうとする。
「〈ルミナ〉!」
「はいっ!」
〈ルミナ〉が即座に光の矢を撃ち込む。
狭い空間での発光は危険だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
矢が黒い塊を焼き、蒸発した水が白い蒸気となって立ち込める。
「〈シロガネ〉、拡散を抑えろ!」
「展開します、《シールド》!」
〈シロガネ〉の結界が、即席の“鍋蓋”のように吹き出し口を覆った。
蒸気と水とネフの欠片が、透明な膜の内側で暴れる。
「〈カルマ〉!」
「ご、ごめんなさい、ちょっと締めすぎました!」
アヤネが慌てて出力を落とす。
しかし一度乱れた流れは、そう簡単には収まらない。
「処理水ライン内圧、まだ高い!
このままだと別の継ぎ目から破断する!」
「くそ……!」
俺は無意識に歯を食いしばっていた。
『落ち着け』
久我の声が飛ぶ。
『〈カルマ〉、ライン全体を“締める”のではなく、“輪”を増やして流路を細かく分けろ。
一点に負荷をかけるな』
「そんな器用なこと──」
「やってみます!」
〈カルマ〉が遮るように言った。
「全部締めるんじゃなくて、“網目”みたいにすれば……!
流れを細かくして、ネフだけ引っかける感じで……!」
鎖のイメージが変わる。
一筋の輪ではなく、パイプの内側に張り巡らされた細かい網。
水だけを通し、重たいネフの塊だけを絡め取るような。
「っ……!」
〈カルマ〉の肩がびくりと震えた。
頭の中に流れ込む情報量が、一気に跳ね上がったのだろう。
「今、どこまで──」
「まだ……六割……!」
かろうじて聞き取れる声。
「“重たいの”だけ、絡まってる感じ……!
動きが鈍くなってる……!」
「ネフ反応、低下傾向!
処理水ライン内圧、安定に向かっています!」
技術将校の叫びが、別種の歓声に聞こえた。
「〈シロガネ〉、吹き出し口、どうだ」
「内部での動きは弱まっています。
蒸気と水だけになりつつあります」
「よし、いったん出力を固定しろ。
〈カルマ〉、それ以上は締めるな」
「でも、下の“たまり場”までは──」
「届かなくていい」
隊長が遮った。
「今は“上に上がってくる流れ”を止めるのが目的だ。
巣本体までは、別の手段を考える」
「……はい」
〈カルマ〉の息が乱れている。
だが、鎖は維持されたままだ。
「出力、五割まで落とします。
“網目”はそのままキープします」
「それでいい」
俺は彼女の肩から手を離さずに言った。
「よくやった」
「まだ途中です。
褒めるのは早いです」
口調は強がっているが、膝がかすかに笑っているのが分かる。
◇ ◇ ◇
その後の数分は、ひたすら“耐える時間”だった。
チャタリングする配管。
結界の内側で暴れる蒸気。
鎖の網にひっかかっては千切れていくネフの“カス”。
〈カルマ〉の額から汗が滴り、〈シロガネ〉の額にも細い汗が浮かぶ。
〈ルミナ〉は光の出力を細かく調整しながら、結界の隙間から漏れ出した黒い欠片を焼き払う。
〈クロガネ〉はいつでも飛び込めるように、足場の端で構え続けていた。
「ネフ反応、処理水ライン内では背景レベルまで低下。
シャフト全体の汚染度も減少傾向」
センサー兵の報告が、少しずつ明るくなっていく。
『よし』
久我の声にも、わずかな安堵が混じっていた。
『第一段階は成功だ。
これで、少なくとも“方舟の血流”が乗っ取られる事態は避けられた』
「……“第一段階”?」
〈クロガネ〉が眉をひそめる。
「ってことは、“第二段階”があるんでしょ」
『当然だ』
久我はあっさり認めた。
『いま〈カルマ〉が張った“網”、それを逆手に取る』
「逆手?」
『ネフの“重たい部分”だけが網に引っかかるなら──
そこをピンポイントで焼き切ればいい』
一瞬、沈黙が流れた。
嫌な予感しかしない。
「ちょっと待てよ、中佐」
俺は思わず口を挟んだ。
「ここで大出力を──」
『大出力は使わん』
久我が遮る。
『〈ルミナ〉の光を、カルマの網に沿わせて“通す”だけだ。
水は透かし、ネフだけを焼く』
そんな芸当が本当に可能かどうか。
理屈としては美しいが、現場からすると吐き気がするほど繊細だ。
「……やってみます」
〈ルミナ〉が、小さく息を吸った。
「〈カルマ〉の“網”に、わたしの光を通す。
“黒いのだけ”焦がすイメージで……」
「〈ルミナ〉」
〈カルマ〉が、乱れた息の合間を縫うように声をかけた。
「絶対、わたしのほうまで燃やさないでくださいね」
「燃やしません!」
〈ルミナ〉が少しだけ笑った。
「わたし、そういうのは得意なほうですから」
そのやり取りに、ほんの僅かに緊張が解ける。
「〈シロガネ〉」
隊長が問う。
「結界で囲った範囲内に絞れば、内部反射を抑えられるか」
「可能です。
光路を制限すれば、配管全体へのダメージも最小限で済むはずです」
「〈クロガネ〉は、万が一結界が抜けたものを斬れ」
「了解」
〈クロガネ〉が剣を握りしめた。
「じゃ、行きますね」
〈ルミナ〉が目を閉じる。
彼女の手の中に、小さな光が生まれる。
指先ほどの小さな光の矢。
「《スレッド・アロー》……細い糸みたいに」
呟きながら、光を伸ばしていく。
〈カルマ〉の描いた“網目”に沿うように、光の糸が配管の内側へと滑り込んでいく。
「……くすぐったいです」
〈カルマ〉が弱く笑う。
「わたしの鎖の上を、“あったかい水”が通ってるみたい」
「熱くなったらすぐ言え」
俺は肩を掴んだまま言う。
「七割ラインの前に止めるからな」
「はい」
光の糸が、網の一つひとつをなぞっていく。
そのたびに、〈カルマ〉の表情がわずかに歪む。
“網”を通じてネフの抵抗と焼ける感覚が、頭に直撃しているのだろう。
足場の下から、かすかな悲鳴のような音が聞こえた。
ネフなのか、“人だったもの”なのか、判別はできない。
「……ごめんなさい」
誰に向けたのか分からない謝罪が、〈カルマ〉の唇から漏れた。
「でも、ここは、渡せません」
その言葉に、〈ルミナ〉の光が一段強くなる。
〈シロガネ〉の結界が、光の逃げ場を限定する。
〈クロガネ〉の剣が、万が一の突破を待ち構える。
「ネフ反応、急速に低下!
処理水ライン内の“塊”はほぼ消失!
シャフト全体の汚染度も、大きく減少!」
センサー兵の声が、今度こそ歓声に変わった。
「〈カルマ〉、出力を──」
言いかけた瞬間、〈カルマ〉の体ががくりと崩れた。
「おい!」
間一髪で支える。
彼女の瞳が一瞬裏返りかけていた。
「出力、落とせ! 全部切れ!」
「……は、い」
かすれた声で答え、〈カルマ〉は鎖を解いた。
網が消える。
耳鳴りが、嘘みたいに静かになった。
「〈カルマ〉の脳波は?」
三島の声が無線に飛ぶ。
『意識レベル低下。だが、危険域には入っていない。
ただちに休養が必要だ』
「戦闘継続は?」
『短時間の限定的なサポートなら可能だが、長時間は推奨しない』
「戦闘を継続させるな」
先を読んだように、久我が言った。
『これ以上はリスクが大きい。
第七の任務はここまでだ』
「……“たまり場”はどうするんですか」
〈クロガネ〉が低く問う。
「根本は、まだ残ってる」
『根本には、別の手段を使う』
久我は即答した。
『少なくとも、“方舟の血管”は守られた。
巣そのものをどうするかは、これからの戦略課題だ』
「また、後回しってことですね」
〈クロガネ〉の皮肉を、久我は受け流した。
『戦争は“今すぐ全部”はできない。
優先順位を間違えなかったことだけは、評価してくれ』
それが現場への最大限の譲歩なのだろう。
乱暴だが、一理はある。
「撤退ルートを案内する。
配管区画の汚染度はまだ完全には下がっていない。
速やかに第五層を離脱しろ」
◇ ◇ ◇
撤退の道のりは、行きよりも長く感じた。
シャフトを登る途中、〈カルマ〉は何度かふらついたが、意識は手放さずに済んだ。
頂上の開口部まで戻ったとき、ようやく緊張が少しだけ緩む。
「……生きて帰ってこれましたね」
地面に膝をつきながら、〈カルマ〉が笑う。
「“三割”どころか、ちゃんと九割くらいでしたよ。
戻ってこれる確率」
「二度とそんな賭け方するな」
思わず頭を小突く。
痛がる余裕があるなら、大丈夫だ。
「〈ルミナ〉、大丈夫か」
「ちょっと目がちかちかしますけど……
まだ光は出せます」
〈ルミナ〉は、わずかにおぼつかない足取りで笑った。
「でも、今日はもう“網に通す”のは勘弁です」
「同意」
〈シロガネ〉が、小さく頷いた。
「〈カルマ〉の負荷も、想定以上でした。
……次に同じことをやるときは、“本当にそこまでやる価値があるか”を、もっと考えたいです」
「それなりの価値はあったと思うが」
隊長が言う。
「お前たちが止めなければ、“方舟の中”はもっとひどいことになってた」
「……分かってます」
〈シロガネ〉は素直に認めた。
〈クロガネ〉は、黙ったままシャフトの開口部を振り返る。
「結局、“巣”はそのままね」
「しばらくは、“網”に引っかからずに上がってくるやつも減るはずです」
〈カルマ〉が息を整えながら言った。
「完全には止められなかったけど、少なくとも、“好き放題”はさせませんでした」
「第一章の締めにしては、ずいぶん中途半端ね」
セラが肩をすくめる。
「ラスボス倒せてないし」
「まだ一章だぞ」
俺は苦笑する。
「ラスボス出てきたら、その場で終わりだ」
「それもそうね」
セラの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
第七方舟・医療区画。
簡易の検査装置に繋がれたアヤネ・クジョウの頭から、いくつものコードが伸びている。
その向こうで、三島がタブレットを眺めていた。
「……ギリギリセーフ。
アウト寄りのグレーゾーンって警告したのに、いきなりそこ叩く?」
「すみません」
アヤネが素直に頭を下げる。
「でも、結果的には“止めた”ってことで……」
「はいはい、“結果よければ”ってやつね」
三島はため息をついた。
「医者の立場から言わせてもらうと、“今回たまたま骨折で済んだからって、次も同じ高さから飛ぶな”って話よ」
「次は、もっと上手くやります」
「そういうところが一番危ないのよ、あんた」
ぶっきらぼうなやり取りだが、どこか優しさが滲んでいる。
「篠原くん」
三島が視線を向ける。
「ブレーキ役のほうはどう? 摩耗具合」
「正直、精神的に疲れました」
隠しても仕方ないので、正直に答える。
「でも、まだ壊れてはいないと思います」
「壊れてないのは見れば分かる」
三島は肩をすくめる。
「問題は、“壊れるギリギリをどこに引くつもりか”よ。
今日みたいな綱渡りを続けてたら、そのうち足場ごと落ちる」
「……階段、探しますよ」
「階段?」
「自分の分の“降りる階段”です」
セラ・ミナヅキの顔が、頭の中に浮かぶ。
「魔女たちを降ろすだけじゃなくて、自分も降りられる場所を」
「最初からそれ言いなさいよ」
三島が、少しだけ笑った。
「ま、そのうち“落ちる用の階段”を売りつけてくる白い連中もいるだろうけどね」
「そこは買わないようにします」
「“たぶん”をつけないところは評価しとくわ」
その評価がどれくらい本気なのかは分からない。
それでも、少しだけ胸の重さが軽くなった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、第七方舟のニュース端末には、こう表示された。
> 『第五層配管区画における設備障害、無事収束』
> 『住民への影響なし。原因は老朽化した配管の破損と推定』
> 『地下防衛軍による迅速な対応に謝意』
ネフの「ネ」の字もない。
魔女隊の「マ」の字もない。
「まあ、そうなるよな」
兵舎のソファに沈み込みながら呟く。
隣では、リナ・サクマが同じニュースを見ていた。
「“老朽化した配管”……」
「一部だけ間違ってはいない」
本当のことを一部だけ混ぜるのは、宣伝の基本だ。
「でも、ここで“ネフが侵入しました”って流されたら、地下の中、パニックになりますよ」
「だから隠すんだろうな」
リナが苦い顔をする。
「だったらせめて、“守ってくれた人たちがいました”くらい、言ってほしいです」
「言われても困るけどな」
そう言いながらも、彼女の言いたいことは分かる。
「……でも、こういうのを見ると、“何のために危ない橋渡ってるのか”分からなくなりそうですね」
「お前はさっき、自分で言ってたじゃないか」
俺は画面から目を離し、リナを見る。
「“戻ってこれたときがうれしい”って。
それでいいんじゃないか」
「それだけだと、ちょっと心許ないです」
リナは少し笑った。
「戻ってきたとき、“誰かに見ててもらえてる”って思いたいので」
その言い方に、一瞬だけ胸が詰まる。
崩落エリアの縁に引っかかった軍服。
“誰にも見られないまま沈んでいった何か”。
それらが頭をよぎる。
「……見てるよ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「少なくとも俺は、お前たちが戻ってきた回数、ちゃんと数えてる」
「ほんとですか?」
「嘘ついてどうする」
リナは、少しだけ頬を赤くした。
「じゃあ、まだまだいっぱい数えてもらわないとですね」
「たくさん数えさせるな。
その分、俺の寿命が削れる」
「削れてもらわないと困ります」
「理不尽だな」
二人でくだらないやり取りをしていると、ドアが開いた。
「何、良い雰囲気出してるのよ」
セラ・ミナヅキが入ってきて、呆れたように言う。
「こっちは配管臭いところの匂い、ようやく抜けてきたところだってのに」
「お疲れ」
「はいはい。
ニュース、見た?」
「見た」
「“老朽化した配管”だって」
セラは肩をすくめる。
「まあいいわ。
この章のタイトルは、“老朽化した配管の話”ってことにしておきましょうか」
「だいぶ売れなさそうなタイトルだな」
「中身はそこそこスリリングだったでしょ?」
たしかに。
売れてほしくはないが、忘れもしたくない一件だ。
ふと、セラが真面目な顔になった。
「……ねえ、悠真」
「なんだ」
「さっき、三島さんから聞いたんだけど」
セラはソファの背にもたれ、天井を見上げる。
「“ブレーキ役”、正式に決まったんだって?」
「ああ」
「おめでとう」
皮肉にも聞こえるし、本心にも聞こえる。
どちらにしても、簡単に返事ができない言葉だ。
「プレッシャーに押しつぶされそうになったら、ちゃんと言いなさいよ」
セラが続ける。
「“大丈夫です”って顔して黙ってると、あの白い連中が本気で付け入ってくるから」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
少し間を置いてから、リナが口を開いた。
「わたしからも、お願いがあります」
「なんだ」
「もし、悠真さんが“やばいな”って思ったら」
リナは、まっすぐこちらを見る。
「ちゃんと、わたしたちの前でも“弱いところ”見せてください」
「それは──」
「“護衛だから”“大人だから”って、全部隠されると、たぶんわたしたちのほうが先に壊れます」
静かな言葉だった。
セラも、それを否定しなかった。
「……善処する」
「善処じゃなくて行動で」
どこかで聞いた台詞を、リナがそのまま返す。
三島といい、こいつらは医者のコピーか何かか。
それでも──
こうして、“守られる側”からもブレーキをかけてもらえるのなら。
俺が握っている綱が、ほんの少しだけ軽く感じられる気がした。
◇ ◇ ◇
その夜。
久しぶりに、夢に“焦土の空”は出てこなかった。
代わりに出てきたのは、配管区画の狭い足場と、吹き出す処理水と、鎖の網に絡まる黒い塊。
夢の中の俺は、その全部を「老朽化した配管」と書かれたニュース記事で雑に塗りつぶしていた。
白いペンキみたいな文字。
その下から、かすかに黒い筋が滲んでくる。
──“ここで止めなきゃ”
そんな声だけが、やけに鮮明だった。
目を覚ましたとき、胸の中にひとつだけはっきりしていることがあった。
俺たちは、まだ一章分のほんの端っこをめくっただけだ。
ラスボスも、決着も、救いも、まだ遠い。
それでも、今日“方舟の中”で握った綱だけは、確かに現実の手応えを持っていた。
このまま綱を放さずに、どこまで行けるか。
どこで、自分の階段を見つけるか。
それを決めるのは、これからの俺たち次第だ。
そう思いながら、俺は薄暗い天井をしばらく眺めていた。
一日の始まりを告げるアナウンスが流れ出すまでの、わずかな静寂の時間を、
ひどく貴重なもののように感じながら。
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