第6話

 訓練が終わるころには、人工照明の色温度がわずかに落ちていた。


 模擬戦闘区画から出るとき、教官が最後にもう一度だけ釘を刺してきた。


「第七戦術魔女隊──〈ルミナ〉、〈シロガネ〉、〈クロガネ〉、〈カルマ〉。

 今日の内容を忘れるな。

 次は“本番”だ。地上で同じ動きができなければ意味がない」


「了解です」


 返事をしたのは、隊を代表してセラ・ミナヅキ──いまは〈クロガネ〉だ。

 リナ・サクマとレイ・シロサキ、アヤネ・クジョウも、それぞれ無言で敬礼する。


 俺たち護衛班は一歩後ろから、それに合わせて手を挙げた。


◇ ◇ ◇


 訓練場を出て、人目の少ない通路に入ったところで、ようやく空気が少し緩んだ。


「ふー……疲れた……」


 最初に気を抜いたのは、やっぱりリナ・サクマだった。

 壁にもたれかかりながら、両腕をぐるぐる回す。


「〈ルミナ〉、腕のストレッチをサボるな」


「ここ、もう公式じゃないですから! リナでいいですよ!」


 セラ・ミナヅキ──〈クロガネ〉が軽く呆れたように言い、そのまま言い直す。


「……リナ。腕、ちゃんとほぐしときなさい。明日、筋肉痛で文句言うのはあんたでしょ」


「それは、そうですけど……」


 口では反論しながらも、言われた通り肩と肘をぐるぐる回し始める。

 レイ・シロサキは、隣で静かにストレッチを真似していた。


「レイも、無理しないでくださいね。

 さっきけっこう結界張ってましたよね?」


「私はまだ大丈夫です。

 むしろ、アヤネのほうが……」


 レイの視線の先で、アヤネ・クジョウは廊下の手すりに肘をついて、少し俯いていた。

 呼吸は落ち着いてきているが、完全に回復したとは言い難い顔色だ。


「頭、まだガンガンするか?」


 俺が声をかけると、アヤネは顔を上げて笑った。


「いえ、さっきよりだいぶマシです。

 “ノイズ”もだいぶ小さくなりましたし」


「ノイズってさ……」


 リナが気にしている様子で口を挟む。


「それ、やっぱりネフの“声”なんですか?」


「どうだろ。

 ネフの声なのか、あたしの中の何かなのか、区別つかないんですよね」


 アヤネは、軽い調子で言う。


「“やめたい”って声と、“もっとやれ”って声が同時に聞こえる感じ。

 どっちが本当かって言われても、たぶんどっちも本当、みたいな」


「その話題、この辺にしときなさい」


 セラが斬るように言った。


「ここまだ、完全に“プライベート”ってわけじゃないから。

 壁、耳があるわよ」


 たしかに、訓練区画の近くは監視カメラや集音マイクが多い。

 誰かが本気で聞こうと思えば、いくらでも拾える距離だ。


 アヤネ・クジョウは肩をすくめた。


「はーい。

 じゃあ、本音トークはまた宿舎のほうで、ですね」


 そう言って、彼女は二本指で軽く敬礼の真似をすると、魔女隊専用の通路のほうへと歩き出した。

 レイが「一緒に行きましょう」と声をかけ、リナも小走りで追いかける。


「じゃあ、悠真さん、また」


 振り返りざま、リナ・サクマが手を振ってくる。


「次、呼び出されたら……その、よろしくお願いします」


「おう。こっちはそれが仕事だ」


 そう返すと、彼女は少しだけ安心したように笑って、鉄扉の向こうへ消えていった。

 扉が閉まり、ロック音が響く。

 魔女隊の宿舎棟は、そこから先、俺たちには立ち入り禁止だ。


 セラ・ミナヅキだけが、扉を見つめたまましばらく動かなかった。

 やがて、俺のほうにだけ聞こえるくらいの声で言う。


「……あんまり、あの子らに“希望”を見せないで」


「希望?」


「あんたの言葉、あの子たちには毒にも薬にもなる。

 “魔女じゃなくていい世界を見たい”とか、“戦いが終わったら”とか。

 ああいうのは、下手すると足をすくう」


 セラの横顔は、いつもより少しだけ陰が濃かった。


「生き延びるために必要なのは、希望よりも“割り切り”のほうだから。

 少なくとも、今の私たちには」


「割り切れないから、俺たちはこうしてまだ壊れてないんじゃないか」


 反射的に返していた。

 セラは一瞬だけ目を細め、それから小さくため息をつく。


「……そういうところが、やっぱり厄介ね、あんたは」


 そう言い残して、彼女もまた別ルートから魔女隊の棟へと戻っていった。


 護衛兵用の廊下にひとり取り残されて、俺は天井を仰いだ。


(希望か、割り切りか)


 そんなもの、どちらかひとつだけでやっていけるほど、戦場は単純じゃない。

 だが、軍のシステムは、「割り切れる奴」のほうを好む。

 久我参謀の顔がちらりと脳裏をよぎり、俺は首を振ってそのイメージを追い払った。


◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 兵舎の談話スペースで、俺は久しぶりに堀井マコトと安物の缶コーヒーを飲んでいた。

 アルコールは、前線職は制限が厳しい。せいぜいカフェインで誤魔化すしかない。


「で、新しい“魔女”はどうだったんだ?」


 マコトが興味半分、怖いもの見たさ半分の顔で聞いてくる。


「〈カルマ〉か。足止めは優秀だ。

 ただ、本人のほうがどこまで持つかは、まだ分からん」


「やっぱそういうもんなんだな……」


 マコトは缶を回しながら、視線をテーブルの上に落とした。


「ニュースじゃ、“新たな希望” とかなんとか綺麗に言ってたぞ。

 『第七戦術魔女隊に新戦力配備、奪還戦線に光明』──だったかな」


「お前、よくそんな文句覚えてるな」


「仕事柄な。

 情報管制の裏方やってると、どんな言葉が市民に刺さるかって話を嫌でも聞かされる」


 そういえば、こいつは管制と広報の間を行ったり来たりするポジションだったか。


「“光明”ね」


 自分で呟いてみて、少しだけ苦く笑う。


「その光の真下で、何人燃えてるかは、ニュースじゃ言わないんだろうな」


「言えねえよ。言ったら、誰も前線に行かなくなる」


 マコトも苦笑した。


「……そういやさ。

 お前のとこの“魔女”たち、コードネームでしか呼んじゃいけないんだろ?」


「ああ。公の場ではな」


「やっぱ、距離を置くためか?」


「それもあるし、情報漏洩対策でもある。

 本名で呼び合ってるところを市民に聞かれて、変な噂立てられても面倒だしな」


「まあ、そうか」


 マコトは一瞬黙り、それからぽつりと言った。


「でもさ、もし俺が“魔女側”だったら──

 コードネームだけで呼ばれてるほうが、よっぽど兵器扱いされてる感じがして嫌かもしれんな」


「……だろうな」


 その可能性は、とっくに頭の隅にあった。

 だからこそ、俺たちは人目のない場所でだけ、できるだけ本当の名前で呼ぶようにしている。


「本名で呼ぶと怒る上官とか、いねえの?」


「いる。

 でも、そいつのいないところで呼べばいい」


「お前、それ、いつか問題になるパターンだぞ」


「もう問題になりかけてるさ」


 苦笑しつつ缶コーヒーを空にする。

 久我に目を付けられていることは、もう隠しようがない。


「それでも、本名で呼んでやりたいときがあるんだよ。

 “兵器”じゃなくて、“ひとりの人間”として扱ってるって、自分に言い聞かせる意味でもな」


「……お前本当、面倒くさい性格してんな」


 マコトは呆れたように笑ったが、その笑いにはわずかな尊敬も混じっていた。


「でもまあ、そういう奴が前線にいるって話は、聞いてて悪くない。

 少なくとも、“全部システム任せです”よりはマシだ」


「システム任せにしたいやつは、上に山ほどいるけどな」


「だな」


 談話スペースの壁に取り付けられたモニタでは、今日も同じようなニュースがループしていた。

 ネフ出現状況、配給物資の予定、軍の声明。

 そのどれもが、どこか遠い世界の話のように聞こえる。


 現場で血と汗を流している感覚と、ニュースの中の「戦況」の間にある溝は、日を追うごとに広がっている気がした。


◇ ◇ ◇


 談話スペースを出て、兵舎の自室に戻ろうとしたとき、廊下の曲がり角で一人の影と鉢合わせた。


 白い簡素な衣。胸元に小さな紋章。

 殲滅教団〈イグジス派〉の説教師──昼間、広場で見た男だった。


「これは」


 彼は俺を見ると、軽く会釈した。


「前線の護衛兵殿ですね。

 広場でもお見かけしましたが、こちらで会うとは」


「……軍関係区域に、よく入れたな」


「許可は取っています。

 “宗教活動の監視”のため、という名目で」


 穏やかな笑みを浮かべながら、彼は肩をすくめる。


「イグジス派、一ノ瀬カナメと申します。

 説教師、と言うと大げさですが──地下の皆さんに、少しでも“救い”の話を、と」


「救いね」


 皮肉が口から漏れそうになるのを、なんとか飲み込む。


「広場での話、“神の裁き”ってやつ、よく通ると思うか?」


「思いませんよ」


 一ノ瀬は、あっさりと言った。


「家族をネフに殺された人々に、“あれは神の使いだ”と告げて、素直に頷かれるとは思っていません。

 ですが──“誰かの責任にしたい”人は、必ずいる」


 その目が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。


「軍の責任にしたい人もいる。

 魔女と呼ばれる少女たちの責任にしたい人もいる。

 あるいは、自分自身の責任にしたい人も」


「だから、神のせいにする、と?」


「そういう人もいます」


 一ノ瀬は淡々と言う。


「私個人の考えを言うなら──

 ネフが“神の使い”であるかどうかは、正直、どちらでもいいのです。

 大事なのは、“人がどう受け止めるか”のほうですから」


「受け止め方で、ネフが消えるならいいんだがな」


「消えはしないでしょうね」


 そこで、初めて彼は少しだけ笑った。


「ただ、“ネフに殺されるより先に、心が死ぬ”人は減らせるかもしれません。

 それを救いと呼ぶかどうかは、人それぞれですが」


 その論理は、どこか久我参謀の冷静さに似ていた。

 違うのは、久我が「生存確率」を基準に話すのに対し、一ノ瀬は「心のあり方」を基準にしていることだ。


「あなたはどうですか、護衛兵殿」


 一ノ瀬が、まっすぐこちらを見る。


「あなたは、何のために戦っていますか?

 “人類のため”ですか? “地下都市のため”?

 それとも──」


 昼間、広場で聞いた言葉が、頭の中でよみがえる。


『あなた方“護る者”が、内心で何に迷っているか、私は知っています』


 あれはただの演出ではなかったのかもしれない。


「……仕事だからだ」


 少し間を置いて、そう答えた。


「戦うのが仕事だから戦ってる。

 それ以上の理由は必要ない」


「そうですか」


 彼は、それ以上追及してこなかった。


「もし──もしですよ」


 廊下の照明の下で、一ノ瀬はゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。


「あなたが、“仕事”では処理しきれない何かを抱え込んだとき。

 コードネームでも階級でもない、“本当の名前”のほうが重くのしかかってきたとき。

 そのときは、どうか思い出してください」


「何を」


「誰かのせいにしていい、という可能性を」


 その言葉は、甘くも、優しくも響かなかった。

 ただ、妙に“具体的な誘惑”として胸の奥に残った。


「あなたが守れなかった少女がいたとして──

 それは、あなた個人の罪ではないかもしれない。

 ネフのせいでも、軍のせいでも、“神の裁き”のせいでもいい。

 そう思うことで、かろうじて立っていられる人もいます」


「……教団の勧誘としては、ずいぶん遠回りだな」


 皮肉を込めて言うと、一ノ瀬は肩をすくめた。


「勧誘だなんて。

 私は、あなたが“壊れ方を選べる”ように、選択肢を提示しているだけです」


「壊れない前提はないのか」


「壊れずに済むなら、それに越したことはありません。

 ただ──」


 彼はふっと目を伏せた。


「この世界で“壊れずに済む”ほうが、むしろ例外でしょう?」


 反論しかけて、言葉が出なかった。

 俺自身、昼間の訓練で、アヤネ・クジョウの「壊れやすさ」を身をもって見てきたばかりだ。


「心配しなくても、私は“魔女”たちを責める気はありませんよ」


 一ノ瀬は、そこで話題を切り替えるように言った。


「彼女たちは、あなた方以上に、ただ“巻き込まれた側”ですから。

 裁くべきは、もっと別の場所にいる」


「たとえば誰だ」


「さあ」


 彼は曖昧に笑った。


「そこを指さすのは、私の役目ではありません。

 ──では、私はこれで」


 そう言って、一ノ瀬カナメは廊下の奥へと歩き去っていった。


 その背中を見送りながら、俺は無意識に拳を握っていた。


(壊れ方を選べ、か)


 くだらない。

 壊れないで済む道を探すほうが先だ。

 そう思う一方で、一ノ瀬の言葉の一部は、どこかで冷静に「逃げ場」として認識している自分もいた。


 魔女たちを守れなかったとき、俺は何のせいにするのか。

 ネフか。軍か。宗教か。自分自身か。

 それとも、何のせいにもせず、ただ静かに折れるのか。


 答えは、まだ遠い。

 だが、そんな問いが頭をよぎる頻度は、確実に増え始めていた。


◇ ◇ ◇


 その夜。


 兵舎のベッドに横たわりながら、俺は天井を見つめていた。

 リナ・サクマ──〈ルミナ〉。

 レイ・シロサキ──〈シロガネ〉。

セラ・ミナヅキ──〈クロガネ〉。

 アヤネ・クジョウ──〈カルマ〉。


 ふたつの呼び方は、そのまま「ふたつの世界」の境界線になりつつあった。


 軍の戦力としての彼女たちと、

 ただの“少女”としての彼女たち。


 どちらか片方だけを見ていれば、たぶん俺ももっと楽に動けた。

 だが、どちらも同時に見てしまった時点で、もう遅い。


(俺は、どっちの世界に足を置いてるんだろうな)


 自嘲気味にそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じる。

 まぶたの裏には、焦土の空と、ネフの影と、コードネームではない彼女たちの顔が、交互に浮かんでは消えていった。


 そしてそのさらに奥で、まだ名前のついていない“何か”が、静かに形を取り始めている気がした。


 ──魔女たちを戦場から降ろす。

 そのために、軍の線を越える覚悟を、いつか決めなければならない。


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