第7話 重力と解放
体育館の天井は高く、金属の骨組みが格子状に組まれ、そこに冬の光が反射してまぶしい。
床はワックスでつるつるに磨かれ、体育館特有の木の匂いと、ボールが弾む乾いた音が混ざり合っている。
ピィィーーッ!
笛の音が鳴り響き、バレーボールの試合が始まった。
「よし、いくぞー!」
「気合入れてけー!」
体育の授業だというのに、妙に熱気がこもる。観客役のクラスメイトが拍手や歓声を送り、試合はちょっとした大会のような雰囲気をまとっていた。
「あかり、レシーブ頼むよ!」
「う、うん!」
相手チームのサーブが、矢のように飛んできた。
あかりは両手を重ねて腰を落とす。
――パァンッ!
腕に衝撃が走り、ボールが高く舞い上がる。
歓声とともに、チームメイトがカバーしてトスを上げた。
「ナイスレシーブ!」
しかしその瞬間、あかりの心は別のところにあった。
(……ん? いま……ジャンプしたとき……)
下っ腹の奥と、お尻のさらに奥。
そこが、ほんの一瞬「きゅっ」と締まった気がしたのだ。
(なにこれ……? 変な感覚……。でも、確かに“反応した”……!)
頭の片隅にその違和感を抱えたまま、試合は続いていく。
スパイク、レシーブ、トス。ボールが弾む音と歓声が体育館に響き渡り、時間が加速していく。
――
やがて勝負は終盤。点差は僅差。
どちらが勝ってもおかしくない状況に、観客席のクラスメイトも声を張り上げる。
「あかり、いいよ! その調子!」
「次、ブロックお願い!」
必死に動きながらも、あかりはさっきの“きゅっ”に囚われ続けていた。
チームメイトの叫びに背中を押され、あかりは助走を踏み出す。
トン、トン、そして大きくジャンプ。
ふわり――。
体が宙に浮いた。
その瞬間、周囲の音がすっと遠のく。
ボールの音も、声援も消えて、まるで水の中に沈んだかのような静けさ。
(……あ……これ……無重力?)
世界がスローモーションになり、時間の流れが凍りついた。
その静寂の中で、あかりの脳裏に奇妙な疑問が浮かぶ。
(宇宙飛行士って……無重力でどうやってトイレするんだろう……?)
次の瞬間、脳内に漆黒の宇宙が広がった。
その中心で、ぽつんと白い便座が浮かんでいる。
(重力があるから……便は下へ落ちる。
でも、宇宙では……落ちない? 留まる? それとも……漂う?)
思考の渦に引き込まれる。
やがて、胸の奥で何かが弾けた。
(あっ……そうか! 肛門括約筋だ!)
ビリビリと全身に電流が走る。
あの「きゅっ」と締まる感覚。
あれは、重力がなくても排泄をコントロールする最後の砦。
(そうだ……あれはただの筋肉じゃない……!
重力に代わって、無重力での秩序を守るバルブ……!
肛門括約筋は……宇宙のエアロックだ!!)
脳内で、巨大な宇宙船のハッチが「ギギギ……」と閉じる音が響く。
その扉は人類の尊厳と船内の安全を守る“最後の防壁”。
さらに連鎖するように、記憶がよみがえる。
(宇宙空間でのトイレ…
そういえば……昔、「宇宙の雑学」って本で読んだような… そう!確か、昔読んだ本で……)
尿は電気掃除機のホースみたいな吸引装置で吸い取られ、ろ過されて再び飲料水に。
「今日のコーヒーは昨日のコーヒー」──それはこういう意味だったのか!
排便はバッグに密閉され、補給船に積み込まれて大気圏で燃え尽きる。
あの流れ星……もしかして、宇宙飛行士のうんち!?
おならは船内で拡散せず、濃いガスの塊となって漂うらしい。
しかもメタンを含むから、うっかり引火すれば宇宙船が大惨事──オナラ爆発事故だ!
(……つまり、あのセンサーは人類進化の究極兵器。
私たちは神の手によって“宇宙対応型の排泄システム”を標準装備させられている存在──
宇宙肛門生命体(コズミック・アヌス・クリーチャー)なのだ!)
脳内にビッグバンの閃光が走る。
星々が一直線に並び、彼女の内なる銀河が輝いた。
(くっ……ここまで考えてしまったら、もう後戻りはできない!
この研究、止めるわけにはいかない……!
私が完成させるしかない……!!
私が目指すべきものは……)
「これだあぁぁぁあーーーー!!!」
その悟りと同時に、あかりの手が振り下ろされる。
――ドォンッ!
ボールが相手コートへ突き刺さった。
「決まったーーー!!!」
「やったぁぁぁぁぁ!」
体育館が歓声に揺れる。
スコアは逆転、試合終了。
「あかり、すごい! 大逆転だよ!」
「今のスマッシュ、完璧だった!」
仲間たちに囲まれる中、あかりはぽかんと瞬きをする。
「え……? わ、私……決めたの……?」
「なに言ってるの! バッチリだったよ!」
「ほんとにすごかったんだから!」
あかりは頬を赤くし、頭をかきながら小さく笑う。
「はは……へへ……」
――誰も知らない。
あの一撃の裏で、彼女が「肛門」と「宇宙」を結びつけていたなんて。
試合後。体育館の隅で一息つきながら、あかりは天井を見上げた。
鉄骨の隙間から差す光が、まるで銀河の輝きのように思えた。
(あのジャンプのとき……確かにお尻の奥が反応した。
無重力の錯覚と、括約筋の“きゅっ”。
これは……私の肛門宇宙論の、新しい証明だ……!)
ペットボトルの水を飲み干しながら、胸の奥で静かに燃える炎。
誰にも気づかれぬまま、彼女の宇宙は広がり続けていた。
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