Sect.3:秘密と消えた楽譜

 書類紛失事件が解決し、事業再開発計画が白紙に戻ってから一ヶ月の月日が流れた。

 鈴は以前と変わらずオフィスで無能な事務員を演じ続けていた。

 わざと数値を間違え、上司に指摘される度に曖昧な返事を返す。

 同僚たちの小声で囁き合う声も彼女の耳にはもう届かない。すべてが計算通り。

 彼女の作り上げた安全な日常だ。

 しかしその内面は以前とは少し違っていた。あの事件をきっかけに彼女の日常に二つの“聖域”が生まれていた。

 一つは一人焼肉の店。仕事で疲れた体と心を癒すための誰にも邪魔されない時間。

 そしてもう一つは仕事が休みの土日のどちらかで立ち寄るようになった時の雫だった。

 扉を開けると鈴の鼻をコーヒーの香りがくすぐり、温かい光と心地よいジャズの調べが優しく彼女を包み込む。

 この場所もまた鈴にとってありのままの自分に戻れる場所となっていた。

 カウンターに座ると聡志がいつものように穏やかな笑顔で迎えてくれる。彼は温かい珈琲の入ったカップを差し出した。

「…紅茶ではないんですね」

 鈴がそう口にすると聡志は微笑んだまま、静かに答えた。

「ええ。これからは僕が個別にブレンドした珈琲を、と思いまして。よかったら飲んでみてください」

 その言葉と彼が淹れた珈琲の香ばしい匂いが、張り詰めていた鈴の心をゆっくりと解きほぐしていく。

 それはただの飲み物ではなく、彼が彼女に託した言葉にならない信頼の証のように思えた。


 ある日、聡志はふと問いかけた。

「そういえば、いつもお肉の香りがしますね」

 その言葉に鈴は目を点にした後、顔を赤らめた。恥ずかしそうに一人焼肉の話をする。「もちろん消臭はしています!」と付け加えて。

 鈴の答えに聡志はどこか可笑しそうに笑みをこぼした。 

 そして彼は何気ない様子で鼻歌を口ずさみ始めた。それはクセのようなもので気づけばいつも口ずさんでいるメロディーだった。

 だがそのメロディーは鈴の心の奥に眠る遠い過去の扉を叩いた。懐かしさと得体の知れない既視感に彼女の心臓は大きく跳ねる。

 その感情の揺れを隠しきれず鈴は無意識のうちに聡志をまっすぐ見つめた。その鋭い視線に聡志は内心ヒヤリとし鼻歌が途切れる。

 聡志が鼻歌を止めた瞬間、二人の間に流れていた空気はまるで魔法が解けたかのように一変した。

 鈴は目の前の聡志がただの喫茶店の店主ではないことを確信した。

 彼もまた、彼女のただならぬ気配を察知したのだろう。

 それから数日後、鈴はいつものように時の雫を訪れた。しかし店のドアにかけられた看板は“CLOSED”になっていた。不思議に思いながらも扉に手をかけると鍵はかかっていなかった。

 陽の光だけが仄かに差し込む薄暗い店内でカウンターにうつぶせに伏せている聡志を見つけた。鈴は一瞬、心臓が止まりかける感覚があった。

「瀬尾さん!?大丈夫ですか?」

 慌てて声をかける鈴に聡志はゆっくりと顔を上げた。その顔は憔悴しきっており、いつもの完璧な笑顔は消え失せ、その瞳には深い悲しみと絶望が宿っていた。

「…溝口さん。どうしてここに?」

 彼の声はか細く震えていた。鈴は聡志に先ほど購入したばかりで未開封のさゆのペットボトルを差し出し事情を尋ねた。

 聡志は大切な古い楽譜がバックヤードから消えたことを途切れ途切れに語り始めた。

「あれは僕にとって、とても大切なものなんです。……誰にも譲れない、かけがえのない宝物で…」

 言葉の端々からにじみ出る動揺と悲しみに鈴の心は揺さぶられた。

 聡志は完璧な“店主”という仮面を外し、楽譜が彼にとってどれほどかけがえのないものかを静かに語り始めた。

 ​鈴は聡志の言葉の裏にある深い悲しみと孤独を瞬時に理解した。

 それは彼女が無能を演じることで得てきた孤独と深く共鳴した。

 しかし、彼女の理解は“かわいそう”という感情ではなく“この人も私と同じ仮面を被った人間だ”という冷徹な確認だった。この共通点だけが彼女が他者に許せる唯一の繋がりだった。

 彼女は共感の対価として謎の真相を暴くための鋭利な視線を彼に向けた。

「大丈夫です。瀬尾さん、私に任せてください」

 鈴はそう告げると聡志に代わって“OPEN”の看板を掲げた。

 店が再び営業を始めると数名の常連客が訪れた。彼らはいつものように聡志に挨拶を交わし、思い思いに席についた。

「瀬尾さん、犯人はこの店のお客さんの中にいます。客を装って情報を集め、犯人を特定しましょう」

 鈴の冷静な判断と聡志の心に寄り添う温かさに聡志は次第に落ち着きを取り戻した。

 その中の一人、いつもは物静かな初老の常連客が、やけに心配そうに聡志に話しかけている。

「聡志くん、顔色が優れないようだが何かあったのか?」

 その言葉はまるで彼の心中を言い当てるかのようだった。

 聡志は笑顔で「大丈夫です」と答えたがその声にはいつもの張りがなく、どこか不自然だった。

 鈴はその客の言葉とその後の不自然なまでの心配ぶりに違和感を覚えた。

 まるで聡志が楽譜を失ったことをはじめから知っていたかのように。

 閉店後、二人は自然と事件の手がかりを探すように店内の清掃を始めた。モップが床を滑る鈍い音が静かな店内に響く。

 そんな中、鈴は床を掃きながらわずかな異変を探していた。彼女の指先がカウンターの足元に触れた。

 そこには砂っぽい不自然な土の感触があった。同時に聡志もカウンターを拭く手を止め、わずかに開いたままになっている窓に気づく。

 二人の視線が交錯する。鈴は無言で首を振ると小さな声で告げた。

「これ、ただの泥棒じゃないかもしれません。泥棒なら、こんなに痕跡を残したりしません。それに楽譜だけを狙うなんて…」

 その言葉に聡志は目を見開いた。

(会社の人たちが口々に“無能”だと噂していた彼女がこんなにも鋭い洞察力を持っているなんて…)

 聡志の脳裏にオフィスで聞いたささやき声が蘇った。鈴の洞察力は彼の予想をはるかに超えていた。

「溝口さんは本当にただの事務員なのか…?」

 聡志の問いに鈴は答えなかった。代わりに聡志の瞳に宿る彼自身も気づいていなかった才能とまだ隠された秘密を彼女は無言で語っていた。

 聡志はそんな溝口の才能に心を奪われ、そして彼女の心に深く響く言葉を口にする。

「あなたは才能を隠す必要なんてない」

 その言葉は鈴が何年もかけて作り上げてきた無能という名の鎧を一瞬で打ち砕いた。それは過去のトラウマに囚われていた彼女がありのままの自分を取り戻すための、最初の一歩となった。

(この人なら本当の私を見ても、きっと…)

 二人の間に言葉を必要としない深い絆が生まれた瞬間だった。

 それは彼が店主として生きる苦悩と彼女が無能を演じる孤独を互いに理解し、受け入れ合ったことで育まれた特別な信頼関係だった。

 そしてその絆は互いの秘密を解き明かす鍵となり、二人の物語をさらに複雑な迷宮へと導いていく。

 楽譜の行方、そしてまだ見ぬ真実の断片が彼らの行く手に静かに横たわっていた。

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