Sect.2:事件と相棒
鈴が時の雫という名のレトロな喫茶店を訪れてから数日が経ったある日。
都内の雑居ビルの一角、窓の外は夕暮れの空が広がり、コンクリートの壁に反射した鈍い光がオフィス内に満ちていた。
書類の山から漂うインクと紙の匂いが鼻につき、どこからともなく響くキーボードを叩く乾いた音が空間を満たしていた。
鈴のデスクの上も例外ではなく、いつものように簡単な計算ミスを装い、上司の指示にわざと曖昧な返答を繰り返していた。
今日も「無能な事務員がミスをした」と、小声で囁き合う声に感情を乗せないように鈴は冷めた目でやり過ごしていた。
彼女にとってこの無能という仮面は他者からの干渉を避けるための唯一の防具であり、計算の内だった。
その日、会社は一つの事件で持ちきりだった。重要書類の紛失。取引先との重要な事業開発に関する書類で今日の提出期限が迫っているという。
社員たちは皆、焦燥感に駆られ右往左往していた。鈴は表面上は彼らの慌てぶりに興味がないふりをしながらも耳はすべての会話を拾っていた。
小声で交わされる声のトーン、その向こうにある焦りや苛立ちの感情が鈴には手に取るようにわかった。
書類は“時の雫”という喫茶店が位置する町内とその周辺の事業再開発に関するものだという。
その名前に彼女の胸の奥で小さな懐かしさが灯った。
数日前に訪れたあのレトロな喫茶店の名前。その瞬間に鈴の頭の中では今回の事件とあの店が結びつく可能性が示唆された。
周囲の慌ただしい空気に居心地の悪さを感じ鈴はオフィスを出て人気のない廊下へと向かう。
冷たい空気の漂う廊下は熱気に満ちたオフィスとは対照的で彼女の冷静さを取り戻させてくれた。
誰にも見られない場所で集めた情報を整理したかった。
彼女にとって無能は誰にも興味を持たれない。だから自由に動ける。
鈴が応接室の前を通りかかったときだった。扉がゆっくりと開き、一人の男性が顔を出した。
「失礼、まだかかりそうですか?」
その声は会社の混乱とは無縁の落ち着いた響きを帯びていた。男、瀬尾聡志は今回の紛失書類に関わる取引先の担当者で事業再開発の代表でもあった。
社内が騒然とする中でも彼はただ一人、焦る様子もなく完璧に振る舞っている様だった。
その姿はまるで嵐の中で静止した湖のようだった。その聡志の耳にオフィス内から聞こえてくる二人の声が届いた。
「無能のくせにこんな時にサボって……」
「面倒事に首を突っ込むなんて、やっぱり空気読めないよね」
聡志は一瞬だけ鈴に視線を向けた。その視線には他の社員の言葉を鵜呑みにしたような微かな軽蔑と、しかしどこか不思議なものを見るような複雑な感情が入り混じっていた。
「申し訳ありません。ただ今、担当者が確認しておりますのでもう少しだけお待ちいただけますでしょうか」
鈴は事務員として事務的な口調で答えた。その一瞬の間に彼女の頭の中では彼の存在が推理のピースとして組み込まれていく。
同時に彼が今回の事件に深く関係していることを瞬時に見抜く。
彼女の勘は鋭い。だが聡志もまた鈴の無能を装った態度の奥にある鋭い観察眼に気づいていた。
言葉を交わす前から互いの隠された才能が磁石のように引きつけ合っていた。
「いえ、大丈夫です。急いでおりませんので……そういえば以前、お店に来てくれましたよね?」
聡志は鈴の顔を見て空白の後に話しかけた。
その声はほんのわずかに店主としての親しさをにじませていた。
鈴は店主と客、そして社員という立場から仰々しく他人行儀な口調で答えた。
「はい、数日前に。この度は書類の件で大変ご迷惑をおかけしております」
「いえ、とんでもない。もう少し早く連絡を頂けてたら…。こちらも日を改めるべきでした」
二人は形式的な会話を交わしながらも互いの腹を探り合っていた。
鈴は聡志を今回の事件の容疑者の一人として冷静に推理していた。
しかし、聡志はただの事務員であるはずの鈴がこの混乱の中でただ一人冷静さを保ち、いつまでもオフィスに戻らないことを不思議に思っていた。
その違和感が彼の好奇心をかき立てる。
「差し支えなければお伺いしてもよろしいでしょうか」
聡志は一歩踏み込み鈴に尋ねた。彼の視線は鈴の仮面の奥を覗き込むように鋭かった。
「……何か?」
「いえ、書類の件とは関係ないのですがなぜあなたはオフィスに戻らないのですか?皆様、とても慌ただしくされているようですが」
その質問に鈴は一瞬、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
聡志の言葉は彼女が何年もかけて作り上げてきた無能という鎧の隙間を的確に突いていた。
彼女は曖昧な笑みを浮かべ誤魔化そうと試みた。
「あ、はい。少し気分転換を…」
「そうですか。実は今回の件、正直僕は白紙になると大変助かるんですよ」
聡志は鈴の顔を見つめ静かにそう言った。
彼の言葉はまるで彼女の発破をかけるように響いた。
それは単なる取引先の担当者の言葉ではなく、聡志は会社の外で事業再開発の代表として今回の件が白紙になることを望んでいるというのだ。
彼の言葉を聞いた鈴の瞳が一瞬、鋭い光を放った。それは聡志が彼女の無能という仮面の下に隠された才能を見抜いた瞬間でもあった。
鈴は聡志の言葉の裏にある思惑を瞬時に読み取った。
彼はこの事件の裏に何があるかを知っていてわざと自分に問いかけている。
それはまるで「君ならこの謎が解けるだろう?」と挑発しているようにも感じられた。
「…今回の件、白紙になることを望んでいらっしゃる、ということでしょうか?」
鈴は事務員としての立場を崩さず、冷静に問い返した。
彼女の頭の中ではすでに聡志と紛失した書類、そしてその書類が時の雫の近くの再開発計画であることの関連性が一本の線で結ばれ始めていた。
「ええ。この再開発は私の祖父が長年大切にしてきた町並みを壊してしまう可能性が高い。私はそれをどうしても阻止したい」
聡志はまっすぐに鈴の目を見つめ、真剣な表情で語り出した。彼の瞳には喫茶店の店主としての優しい眼差しとは違う強い意志が宿っていた。
「そして、この書類を紛失することで白紙に戻ると考えた人間が僕以外にもう一人いるんですよ。それは今回の企画の担当課長です。彼の動機は僕とは全く違うようですが」
聡志は鈴を試すように推理を促した。鈴は彼の問いかけに無言で思考を巡らせる。課長が書類を紛失させた動機。
それは聡志と同じく再開発の白紙化だ。しかし、聡志と決定的に違う点を探し始めた。
その書類を無くした事で得をするにはどうすればいいか。
鈴の頭の中で導き出された一つの答えは部下に責任を負わせ自分に非がないように見せることだった。
(再開発の白紙化を望んでいる。だが、その理由は完全に私的なもので日々の部下や年若い社員への視線…………)
鈴はこれまでの会話や社内で集めた情報から社員らへの視線や声のトーンの変化を思い出していた。
それは羨望と劣等感が入り混じった複雑な感情が滲み出たものだった。
「…課長は再開発が成功すれば、すべての功績が貴方のような年若い社員のものになるとお考えなのでは?そしてそれはご自身のこれまでの努力が正当に評価されないことへの劣等感と嫉妬からくるものだとすると…」
鈴の言葉に聡志は驚きを隠せない。
彼は鈴がただの事実を繋ぎ合わせるだけでなく、相手の感情の機微まで読み取っていることに気づいたのだ。
「あなたは、ただの事務員ではない。一体、何者なんですか?」
聡志の問いに鈴は微笑みを浮かべた。彼女は、無能という仮面を今、目の前の聡志の前で少しだけ外すことができるような気がした。
「…ただの、観察が好きな事務員ですよ」
そう言いながらも二人の間にはすでに言葉以上の絆が生まれていた。
数日後、鈴は仕事帰りに時の雫へと足を運んだ。ドアを開けると鈴の鼻を心地よいコーヒーの香りがくすぐり温かい光と心地よいジャズの調べが優しく彼女を包み込む。
鈴にとって会社の喧騒とは全く異なるこの場所にどこか懐かしさを感じていた。
聡志と目が合うと小さく会釈をしてカウンターに座る。
聡志は穏やかな笑顔で迎えた。そして彼は何故か珈琲ではなく温かい紅茶を差し出した。
何故、紅茶なのだろうと疑問に思いつつも一口飲むとその香りと温かさが張り詰めていた鈴の心をゆっくりと解きほぐし理由がわかり再び聡志を見た。
少し驚いた鈴に聡志は優しい笑みで返した。
「…今回の件、ご協力ありがとうございました」
鈴は事務員としての立場を忘れて心からの感謝を伝えた。
聡志は何も言わずに彼女の言葉を静かに受け止めた。
「書類の件、無事白紙になったと聞きました。おめでとうございます」
鈴が続けて告げると聡志の表情に安堵が浮かび、静かな喜びが彼の瞳に宿った。
「ええ、おかげさまで。感謝しています」
聡志の言葉は単なる社交辞令ではなかった。
それは彼女の鋭い観察力と推理力が彼の長年の願いを叶えたことへの心からの感謝の言葉だった。
二人の間に交わされたのはたったこれだけの言葉だったがその背後には言葉以上の絆が確かに存在していた。
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