アサガオ日記
彼辞(ひじ)
第1話 夏休みの親子
夏休みの朝は、いつもより空気が湿っぽい。蝉の鳴き声が窓の向こうから押し寄せてきて、まるで耳の奥を占領するみたいだ。私は麦茶の入ったコップをテーブルに置き、宿題を前に鉛筆を握る息子の背中を見守っていた。小学二年生になったばかりの直人は、相変わらず字を書くのがゆっくりで、丁寧すぎるくらい一文字ずつを刻む。
「ひらがなは、もっとすらすら書けるようにならないとね」
「うん……」
返事は小さいけれど、筆は止まらない。宿題のプリントを一問解くたびに、直人は小さくうなずき、自分で自分を励ましているように見える。
今年の夏休みには「アサガオの観察日記」が課題として出ていた。春から育ててきた鉢植えを持ち帰り、毎日観察して絵と文でまとめる。私が小学生だったころと同じ宿題だ。世代を越えて繰り返される課題には、妙な安心感がある。
けれど、直人が描いたアサガオの絵を最初に見たとき、ほんのわずかに胸の奥がざわついた。花はきちんと紫色に塗られ、葉っぱも緑で、形も崩れてはいない。けれど、鉢の横に“人のような影”が立っているのだ。子どもの描く落書きにありがちな棒人間ではなく、黒い塊のような、何かの存在。
「これは……誰?」
私が訊くと、直人は首を傾げて笑った。
「うーん、だれだろうね」
悪びれた様子もなく、ただ曖昧に答えた。
その曖昧さが引っかかった。けれど、子どもの空想はよくあるものだ。私は深く追及せず、「上手に描けたね」と褒めておいた。
昼食を済ませたあと、二人でスーパーへ出かける。炎天下のアスファルトは揺らめき、信号待ちの間に立ちくらみがした。直人は私の手をぎゅっと握って離さない。
「ママ、今日のあさがお、二つさいたよ」
「そう、ちゃんと見てるのね」
「うん。でも、ケータくんも見てたよ」
「……ケータくん?」
私は聞き返した。直人は当然のようにうなずく。
「うん、いつもいっしょにいるんだ」
けれど、その名前は私には聞き覚えがなかった。クラス名簿を思い出しても、近所の子の顔を思い浮かべても、一致しない。
「どこの子?」
「えっとね……おうちのそとにいる子」
直人の答えは曖昧だった。私は「夏休みだから、誰か近所の子と遊んでるんだろう」と軽く受け止めた。けれど、どこか胸の奥に薄い棘が刺さったような感覚が残った。
夕方、宿題を続ける直人の横で私は夕飯の支度をしていた。包丁の音に紛れて、小さな声が聞こえた気がして振り返る。直人は鉛筆を握ったまま、机に向かっている。口元が小さく動いていた。
「なに話してるの?」
「……ないしょ」
いたずらっぽく笑う。だがその笑顔の向こうに、ふと別人の表情がよぎった気がして、私は視線を逸らした。
夜になって、寝室で直人に絵本を読んでやる。ページをめくるたび、彼は静かに聞いているが、ところどころで「あ、これ、ケータくんもしってるよ」と呟く。その名前は、今日一日で何度も繰り返された。
「ねえ、その子、どこにいるの?」
「ここだよ」
直人は、窓の方を指差した。カーテンは閉じている。外からは夜風に混じって、まだ蝉の声が聞こえるだけだった。
私は冗談めかして笑おうとしたけれど、声が掠れた。子どもの空想なら微笑ましいが、あまりに繰り返されると、不気味さが勝つ。
「明日、ママにも紹介してね」
「うん……でも、ママは、あえないかも」
直人はぽつりと言った。眠気に沈む直前の声だったが、その響きは妙に重かった。
布団に潜り込みながら、私は思った。子どもの世界には、大人には見えない友だちがいてもおかしくはない。だけど、「あえないかも」と断言するような口ぶりは、どこか現実的すぎる。まるで直人自身が、自分の隣に確かに誰かがいることを疑っていないかのようだ。
翌朝、まだ陽が昇りきる前に目が覚めると、直人は庭先でアサガオを見つめていた。紫の花が二つ、朝の光を吸い込むように咲いている。その横に、鉢よりも背の高い影が寄り添うように立っている気がした。
私は慌てて窓を開けた。庭には直人しかいなかった。彼は振り返り、にこっと笑った。
「ね、きょうもケータくんがきてる」
そう言った顔には、どこか私の知らない笑みが混じっていた。
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