第9話 受験と決意

 冬の気配が街を包み始めた。

 横浜の並木道にはイルミネーションが灯り、冷たい風が制服の袖口に入り込む。吐く息は白く、タクトの胸の奥にこびりついた迷いを映し出しているようだった。


 告白から数週間。

 きょうことは変わらず授業を続けていた。だが、空気のどこかに“線”が引かれたままだ。

 彼女はこれまで以上に教師としての姿勢を崩さず、距離を保って接している。

 それでも——その厳しさの奥に、揺れるものをタクトは確かに感じ取っていた。


「タクトくん」

「はい」

「次の模試が山場になるわ。ここで結果を出せれば、自信を持って志望校を狙える」

「……わかってます」

 答えた声は少し硬かった。

 するときょうこはペンを置き、彼をまっすぐ見つめた。

「タクトくんは、何のために大学に行くの?」

「何のために……」

「“行きたいから”じゃなくて、“そこで何をするか”。それが決まっていないと、受験勉強はただの作業になってしまう」


 彼女の問いは鋭かった。

 けれど、タクトの心にはすでに答えが芽生えていた。


「……僕、やっぱり家庭教師になりたいです」

「前にも言ってたね」

「はい。でも、あのときより本気です。先生と一緒に勉強してきて、“知識を渡すこと”じゃなくて、“人の背中を押すこと”が家庭教師の役割なんだってわかりました。僕も、誰かにとっての光になりたい」


 言葉を重ねるごとに、胸の奥の不安が消えていく。

 きょうこはしばらく黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。

「いい答えだね。……そうやって自分の言葉で言えるなら、きっと大丈夫」

「大丈夫、ですか?」

「ええ。勉強の成績よりも、自分の未来をどう描けるか。それが本当の“受験力”だと思う」


 冬休み。

 タクトは毎日図書館に通い、朝から夜まで机に向かった。

 模試で見つけた弱点をノートに書き出し、一つずつ克服していく。

 単語帳を十周し、過去問を解き、答案の書き方を改善する。


 疲れたとき、きょうこの言葉がよみがえる。

《迷う姿も、勉強になるんだよ》

《比べちゃう自分と、どう付き合うか》

《“できた”と言葉にすることが大事》


 その一つひとつが、背中を押す灯火のようにタクトを支えていた。


 大晦日、夜の港に立ちながら、タクトは手帳を開いた。

 “志望校:横浜大学 教育学部”

 その文字の下に、自分の字で新たに書き加える。

 “将来:家庭教師を営む”


 観覧車のネオンがカウントダウンのように点滅し、港に汽笛が響く。

 タクトは両手をポケットに突っ込みながら、静かに誓った。

「絶対に合格する。そして、先生の隣に立てる自分になる」


 年明け。

 初詣の帰りにきょうこの家を訪ねると、彼女は白いセーターに身を包み、台所でお汁粉を作っていた。

「新年だから、甘いものでも食べて頭に栄養を入れなきゃね」

 差し出された椀から立ちのぼる湯気に、タクトは胸が熱くなった。


「先生。僕、本気で受験に挑みます」

「うん」

「その先に、自分の夢があるから」

 きょうこは一瞬、椀を持つ手を止め、そして静かに頷いた。

「私も、本気で君をサポートする。だから……約束しよう」

「約束?」

「タクトくんが合格したら、そのとき改めて、未来の話をしよう」


 その言葉に、タクトは力強く頷いた。

 胸の奥で、小さな炎が大きな火へと変わるのを感じていた。


 受験と決意。

 それは勉強だけでなく、心の在り方をも試す戦いだった。

 タクトはその扉を、自分の手で開こうとしていた。

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