第8話 初めての涙

 十一月、横浜の空は澄みきっていた。

 みなとみらいの並木道にはイルミネーションが取り付けられ、夜になると光のトンネルができあがる。

 タクトは授業の帰り、その灯りを横目に見ながら、胸の内に抑えきれない思いを抱えていた。


 その日の勉強は、正直、手につかなかった。

 数学の問題を解きながらも、視線はノートよりきょうこの横顔にばかり向いてしまう。

 ペンを持つ手が止まるたび、彼女は「疲れてる?」とやさしく声をかけてくれる。

 その優しさに触れるたび、胸の奥の熱が強くなる。


「……先生」

「ん?」

「僕、どうしても伝えたいことがあります」

 きょうこは少し驚いた表情を見せ、ペンを置いた。


「僕、先生のことが好きです」

 言葉が、静かな部屋に落ちた。

 窓の外で風が木々を揺らす音だけが、二人の沈黙を埋める。


「……タクトくん」

 きょうこは口を開いたが、すぐに閉じた。

 再び声を出したとき、その瞳には迷いがにじんでいた。

「それは、先生として一番聞いちゃいけない言葉なの」

「でも、本気です。勉強を頑張れるのも、毎日続けられるのも、先生がいるからなんです。僕は——」


 言葉が途切れた瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが溢れ出し、タクトの目に熱いものが滲んだ。


「……泣いてるの?」

 きょうこの声は驚きと、どこか痛みを含んでいた。

「すみません……。でも、どうしても止められなくて」

 タクトの頬を伝う涙を、彼女は見つめていた。

 大人の余裕をまとっていたその表情から、わずかに力が抜ける。


「タクトくん……」

 きょうこは視線を落とし、カップの中の紅茶をじっと見つめた。

「私も、人間だから。君の気持ちに揺れてしまう瞬間はある。でもね——」

 深く息を吸い、彼女は言葉を選んだ。

「私は先生で、君は生徒。その関係を壊したら、君の未来を壊すことになるの」


 タクトは涙を拭いながら、必死に言った。

「未来を壊したくありません。でも、この気持ちを無理に消すこともできません」

「……うん」

「だから、先生。僕は必ず大学に受かって、先生に胸を張って会えるようになります。そのときにもう一度伝える。だから今は、待っていてください」


 きょうこの目が大きく揺れた。

 返事はなかった。けれどその瞳の奥に、涙がきらめいたのをタクトは見逃さなかった。


 その夜、帰り道。

 港の風は冷たかったが、胸の中には熱が残っていた。

 告白は受け止められなかった。けれど、拒絶でもなかった。

 彼女の涙は、何よりの証拠だった。


 ——いつか必ず、この思いを形にする。

 タクトは心にそう誓い、街の灯りの中へ歩みを進めた。

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