第6話 すれ違い

 夏休みが終わり、二学期が始まった。

 教室の空気は、海の匂いを少しだけ残している。日焼けした顔が並び、友人たちの笑い声が弾む。

 けれど、タクトの胸の中には花火大会の夜から続く重さが残っていた。


「なあタクト、文化祭のバンドメンバー、まだ決まってないんだけど一緒にやらない?」

 友人の圭吾が笑顔で声をかけてきた。

「ごめん、ちょっと勉強で……」

「またそれ? おまえ最近“勉強漬け”じゃん。夏休みだって家庭教師の先生とばっかだろ」

「……」

 図星を突かれ、返事に詰まる。


 日曜の午後。

 きょうこの家の机に向かっていても、どこか集中できなかった。

 ペンを持つ手が止まり、つい視線が彼女の横顔を追ってしまう。

 ——花火の夜、言えなかった告白。

 その残響がまだ消えない。


「タクトくん、どうしたの? 今日はノートが進んでないよ」

「あ、すみません」

 彼女の声は変わらず穏やかだった。けれど、その目にはわずかな距離があった。


「……先生」

「なに?」

「この前のこと、まだ考えてますか?」

 彼女はしばし沈黙し、紅茶を口に運んだ。

「考えてないわけじゃない。でも、答えは変わらないよ。私たちは“先生と生徒”。その線は守らなきゃ」

 その言葉は、優しさと同時に、冷たい現実を突きつけた。


 学校では、同級生の真由が声をかけてきた。

「タクトくん、英語の小テスト、どうやって勉強してるの?」

「え? あ、単語帳を毎日繰り返してるだけ」

「やっぱりね。ありがとう、助かる!」

 彼女は明るく笑い、ノートに書き込みを始めた。

 その瞬間、タクトはふと気づいた。

 自分は同級生からも“頼られる存在”になり始めている、と。


 それは嬉しいはずだった。だが、頭の中に浮かぶのはきょうこの言葉。

《その線は守らなきゃ》

 学校で少しずつ広がっていく自分の居場所と、彼女の前で感じる“線”。二つの世界が、重ならない。


 九月のある日。

 授業を終えたきょうこが帰り際に言った。

「タクトくん。最近、心ここにあらずって感じがする。学校で何かあった?」

「……別に」

「もし悩んでるなら、ちゃんと話してね。私は先生だから」

「先生だから、ですか?」

「え?」

「先生だから……僕の気持ちを受け止めてくれないんですか」

 思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

 彼女は一瞬目を見開き、そして静かに首を横に振った。


「受け止めてないわけじゃない。むしろ……受け止めてしまってるから怖いの」

 その声は、かすかに震えていた。


 夜、机に向かいながら、タクトは思った。

 学校では頼られ、友人と笑い合う時間がある。

 でも彼女の前では、恋と勉強が絡まり、心が揺れてしまう。


 “すれ違い”——その言葉が、今の二人の距離をそのまま映していた。

 けれどそのすれ違いこそが、自分を大人へ近づけている。

 そう信じて、タクトはまた一行、ノートに英文を書き込んだ。

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