第5話 夏の記憶
八月の横浜は、昼間から熱気がまとわりつくようだった。セミの鳴き声がアスファルトに反射し、港の空気すら重たく感じられる。
タクトは模試帰りに受け取ったプリントをリュックにしまい、家に帰ると浴衣に着替えた。今日は横浜港の花火大会。友人の圭吾に誘われていたのだが——その集合場所に行く前に、心の中にもう一つの約束が浮かんでいた。
《もし時間があったら、花火を少しだけ見に行こうか》
数日前、きょうこから届いたメッセージ。
たった一行なのに、タクトの胸を熱くするには十分だった。
港の広場は、すでに人であふれていた。浴衣姿の女子高生たちが笑い合い、屋台の明かりが並び、潮風に焼きそばの匂いが混ざる。
タクトは人混みをかき分けながら、待ち合わせ場所のベンチへ向かった。そこには、夏らしい薄手のワンピースにカーディガンを羽織ったきょうこが座っていた。
「来てくれたんだね」
「はい」
言葉はそれだけだったが、互いに視線が交わった瞬間、周囲の喧騒が遠のいた気がした。
花火が夜空に咲く。
最初の一発が轟音を伴って弾けると、観客たちの歓声が広場を満たした。赤、青、金——火花は大輪の花となり、海面に映って揺らめく。
「きれいですね……」
「うん。やっぱり横浜の夏はこれだね」
きょうこは空を見上げながら、肩にかかった髪を指で整えた。その仕草を横顔で見ているだけで、タクトの鼓動は花火と同じリズムを刻んでしまう。
「先生は、毎年来るんですか?」
「ええ。大学生の頃から。……でも、こんなに胸がざわつく花火は、初めてかもしれない」
彼女は何気なくそう言ったが、その言葉がタクトの心を深く刺した。
やがて人混みが増し、押し寄せる波のように観客が揺れる。タクトは思わずきょうこの手首を掴んだ。
「危ないです」
「……ありがとう」
彼女の声は、花火の音にかき消されそうだった。
けれど、その手の温もりだけははっきりと伝わってくる。
数秒後、タクトは慌てて手を離した。
「す、すみません!」
「いいの。むしろ助かったわ」
きょうこは微笑みながらも、視線をそらした。その瞳の奥に、一瞬だけためらいの影が差したように見えた。
花火の終盤、連発が夜空を真昼のように照らした。
光の洪水の中で、タクトは勇気を振り絞り、声を絞り出した。
「……先生」
「なに?」
「僕……、先生のことが——」
轟音が言葉をのみ込んだ。
夜空に花火が重なり、タクトの声は自分の胸の中に押し戻される。
その代わりに、きょうこが小さく囁いた。
「タクトくん」
その声は、花火よりもはっきり届いた。
「……気持ちは嬉しい。でも、今はその言葉を受け取っちゃいけない」
彼女の言葉は優しさに包まれていたが、その奥には“線”が引かれていた。
先生と生徒。大人と高校生。
越えてはいけない境界線。
帰り道、混雑を避けて歩く二人の間に、しばらく沈黙が続いた。
観覧車が遠くで光を放ち、海の波が静かに打ち寄せる。
「タクトくん」
「……はい」
「今日のことは、勉強の“原動力”にしてね。恋の燃料じゃなくて」
「……」
「本当に先生になりたいなら、自分の気持ちをどうコントロールするかが、一番大事だから」
その言葉は冷たくなく、むしろ彼を信じているからこその真剣さを帯びていた。
タクトはうつむきながらも、強く頷いた。
彼女を振り向かせる方法は一つしかない——努力し、自分の未来を掴むことだ。
その夜、布団に横たわりながら、タクトは花火の残像を何度も思い返した。
夜空に咲いた火花、彼女の横顔、手首の温もり。
すべてが夏の記憶となり、胸の奥で燃え続けていた。
禁断の恋。
それでも、この気持ちを力に変えて、必ず大人になってみせる。
そう心に誓い、タクトは目を閉じた。
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