花束の行方②

 曲が終盤にさしかかった。突然、心の叫びのようなきしんだ音が空気を切り裂いたかと思うと、ピタッとやんだ。聴衆が、息を飲んで見つめる中、王子のバイオリンが、今度は穏やかな旋律を奏で始める。ロザリンドは、丁寧にタイミングを合わせ、ピアノの鍵盤を細くたおやかな指で押さえた。


 狙い通りの音が、ふわっ、と出た。より丁寧に音を紡ぐ。浮遊感が心地よい。見上げた瞳の先に、弦の奏でる音と鍵盤が奏でる音が絡み合い、きらきら輝いている。


(こんなこと、初めて)


 ロザリンドは、目を閉じ、首を左右に振る。聴衆も静まりかえっている。バイオリンとピアノが作り出す世界に没入しているようだ。ロザリンドの内に、温かな光が宿る。


 そして、その瞬間が訪れた。若者の心が癒やされ昇華していく場面の締めの音。聴衆の心にいつまでも残るように、的確に決めなければならない。耳を澄ませて、王子の呼吸を探る。そして……。


 ぽお~~~ん。


 重なりあった音が、ホールの天井高く響き渡り、きらめきながら消えていった。ロザリンドの内に宿っていた光と共に。


 つかの間の静寂。パラパラと拍手が起こる。やがて聴衆が席を立ち始め、万雷の拍手が鳴り響く。


 ロザリンドは、一息ついた。成功だ。王子を見やる。王子は、優しい笑みを返した。目尻から涙があふれ、自然と頬を伝う。


 万感の想いを胸に、客席を見渡したロザリンドの瞳に、花束を手に、しずしずと近づいてくる女子生徒が映った。美術科の生徒だろうか。「一枚の布を、どうしたらこのような形にできるのか」と疑問符が乱れ飛ぶ摩訶不思議なドレスを身にまとっている。


 ロザリンドが通う王立アルベルト芸術学院は、一学年80名、全学年合わせても240名ほどの小規模校で、音楽科、美術科、総合芸術科の三学科がある。ロザリンドが所属しているのは、音楽科。王子も同じである。

 その生徒たちの学業の成果を発表する場である芸術発表会は一年に一度、学年末に行われるが、普段は制服に身を包んでいる生徒たちも、その日は私服で過ごしてよいとされている。音楽科の生徒たちが正装して舞台に上がるため、残る二学科の生徒たちも、ご自由に、ということだ。

 創立初期のその二学科の生徒たちは、音楽科の生徒たちに習い、舞踏会に行くような華やかなドレスや燕尾服に身を包んでいたが、時が移ろうにつれ生徒たちは思い思いの服装をするようになり、そこから発展して、その日のために独自でコスチュームを作り見せ合うようになった。

 学院も、それを歓迎し、今では、芸術発表会といえば、音楽科は演奏の披露、美術科及び総合芸術科は作品展示及びグループで制作したコスチュームのプレゼンテーションを行うことになっている。

 独創的なコスチュームに身を包んだ生徒たちは、時にポーズを決めてくれたりする。そこで、ロザリンドも、その女子生徒が何かしてくれるのではないかと期待し見ていた。


 その生徒は、王子の前までくると、身をかがめ、花束を差し出した。王子は、少し視線をさまよわせ、無言で受け取る。生徒は、ドレスの裾をつまんで優美なお辞儀を披露すると、目を伏せて数歩下がり、ごく自然に、すっと背筋を伸ばしてから体の向きを変え、来た方向へと歩き出した。靴音も動く度に揺れるドレスの裾も乱れない。


(なんて優雅な立ち振る舞いなのかしら)


 ロザリンドが思わず見とれていると、その後ろ姿を見送っていた王子が、咳払いを一つした。ロザリンドが視線を王子に移す。と、王子は意を決したように聴衆に向き直り、ホールの隅々まで聞こえるように声を張り上げ、語り始めた。


「生徒諸君、本日は、よく集まってくれた。我々の演奏は、楽しんでもらえただろうか?」


 わあっと歓声があがり、拍手がロザリンドと王子を包み込む。王子は、さらに声を張り上げた。


「今日は、私の決意を聞いて欲しい。周知の通り、私には、婚約者がいる。この婚約は、まだ幼き頃に、周囲の大人によって決められたものではあるが、互いに納得し、栄えある未来に向けて共に手を取り、たゆまぬ努力を続けてきた。ただ、ここに来て、それぞれの目指す方向が違うことに私は気づいた。目の前に三本の道があるとしよう。二人が歩んでいる道、私好みの道、そして、彼女が好みそうな道の三本が。その分岐点に立ったとき、諸君は、何を思うだろうか?」


 王子は、言葉を切り、聴衆を見渡した。突然始まった、王子の人生問答。生徒たちは、戸惑いながらも、耳を傾けている。その様子を見てとった王子は、言葉を続けた。


「それぞれの道には、運命という名の扉が立ちはだかっていて、それを開けないと前に進めないが、その鍵を手に入れるには、対価として、それ相応の努力と犠牲がいる。扉を開けた先に続く道は、平坦な道とは限らない……。生徒諸君、私は、君たちに問う。その扉の前に立った時、諸君なら、どうする?ひとまずその扉を開けて、その先に続く道を見ようとはしないか?そして、その結果、何としてもその道を行きたいと願う時、そしてその道にはパートナーを連れて行くことができないとわかった時、諸君ならどうする?自分の気持ちに蓋をして、それ以外の道をパートナーと共に歩むのか?それとも――」


 王子の熱弁は続く。ロザリンドは、不安になった。自分たちのあとにも演奏を披露する生徒がいる。その時を、ドキドキしながら待っているはずだ。それなのに、長々と演奏と関係のないスピーチしていていいはずがない。

 ロザリンドは、学院関係者を目で探した。何か指示があれば、それに従わなければ。と、ロザリンドの視界の隅に、先刻、花束を持ってきた女子生徒の姿が映った。背を向けたまま、ひっそりと佇んでいる。王子の言葉に、深く聞き入っている様子だった。素直な方。そう思った。


 王子の言葉は続く。


「チャレンジもせず自らの望みを封印して、パートナーと共に定められた道を歩むことを選ぶのが果たして正しい選択だろうか?そして、それを愛ある行為と人は言うのか?いや、違う。それは、愛ではない。偽りの愛だ。偽りの愛を捧げられて、諸君は素直に喜べるか?」


 王子が、愛について語り出した。


 何で、また?いつまで続く?

 場が、そわそわし始める。学園関係者は、動かない。あの女子生徒も……。


「偽りの愛には、真実の愛で応じるべきだと私は考える。彼女は、すでに、己の前の扉を開け、その先に続く道を確認している。そして、幸いにも、今日、私にも新たな道を見通すことができた。私の前に塞がる運命の扉を開くことができたのだ。そこで、私は、この場を借りて宣言する。ナルスタス王国第一王子ロレンツィオ・ナルスタスは、今日、この時をもって、婚約者ユリアナ・バートン公爵令嬢との婚約を破棄し、それぞれ別の道を歩むこととする。己が信じる真実の愛をつらぬくために!」


「おおーっ!」


 会場がどよめく。熱弁に魅了され、同意の拍手を送る生徒もいる。

 それらに混じって、「は?」「どういうこと?」「わけわからん……」などのとまどいの声も漏れる。ピアノの前の椅子に座ったままのロザリンドも、理解が追いつかず視線をさまよわせた。

 王子は、そんなロザリンドに気づくと、歩み寄り、片手を差し出す。ロザリンドは、躊躇うことなくその手を取り、立ち上がった。促されるままに王子の横に並ぶ。客席がざわついた。


「生徒諸君、紹介しよう。今日、その扉を開ける手伝いをしてくれたのが、このロザリンド・フェデラー伯爵令嬢だ。彼女は、音楽家を目指して、邁進している。彼女のたゆまぬ努力が、その情熱が、私をここまで引き上げてくれた。私は、彼女と組んで、この場に立てたことを嬉しく思う」


 王子は、ロザリンドを見やった。ロザリンドは、恥じらうように頬を染め、上目遣いに王子を見返す。王子は、にこやかに笑いかける。そして、やおら生徒たちに向き直り、呼びかけた。


「生徒諸君、彼女は、才能溢れる素晴らしい音楽家だ。そして、私の大切なパートナーでもある。その彼女に、今一度、大きな拍手を!」


 大きな歓声と共に、万雷の拍手が巻き起こる。ロザリンドの胸に熱いものがこみあげた。やがて、それは大粒の涙となり、その青く澄んだ瞳からぽろぽろとこぼれ落ちる。

 王子の横に立ったまま、両手で顔を覆い、肩をふるわせて泣く。その華奢な肩を、王子が感極まった様子で抱き、揺らす。


 夢にまで見たスタンディングオベーション。 

 心が震え、声が出せないほどの多幸感に包まれる。

 努力が認められるって、なんて幸せなの……。


 王子は、ロザリンドに花束を渡すと、空いたその手を高く上げ、聴衆に応える。

 ロザリンドは、何か強い力で、高い頂に押し上げられるような感覚を覚えた。


(この感覚は、そしてこの景色は、決して忘れない――)


 幸せの絶頂に佇み、濡れた瞳で眼下を見下ろしながら祝福の喝采を浴び続けるロザリンド。その瞳には、薄暗がりの中、ふらふらとその場に崩れ落ちる女子生徒の姿も、そして彼女に駆け寄る学院関係者の姿も、映らなかった。

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