コミュ障の魔術師見習いは、バイオリニスト志望の王子と魔物討伐の旅に出る

きりと瑠紅

序章

花束の行方①

 時に切なく、時に激しく奏でられる弦の主旋律。

 それに寄り添うかのように優しく響く鍵盤の音。


 それらが絡み合いながら、緩やかに曲線を描くホールの天井高く昇っていく。



(一つ一つの音がきらめいて見える)


 優美に手を動かしながら宙を見上げたロザリンド・フェデラーは、ほぅ、と息をついた。


 この二ヶ月、色々なことがあった。ロレンツィオ・ナルスタス王子とこうして芸術発表会の舞台に上がり、バイオリンとピアノの二重奏を披露することが決まってから、日々、練習にいそしんできたが、一部の生徒から中傷されたことは否めない。ロザリンドは、純粋に良い演奏を披露したいがために、熱心に取り組んでいたのだが。


「何をしているのか存じませんが、婚約者がいる方と二人きりで放課後、音楽練習室にこもるのは、いかがなものでしょうか?」


 学院の廊下で、通りすがりに自分にだけ聞こえるように放たれた悪意に満ちた言葉。あれは、美術科の学生だったか。


「乙女に、あるまじき行為ですわね?」


 語尾を強調し、ほほほ、と、わざとらしい笑いを付け足したその言葉は、ロザリンドの心に突き刺さった。


「ロザリンド・フェデラー、貴方が、殿方との逢瀬に音楽練習室を使っているとの声があがっております。練習室は、音が外に漏れないような設計ですので、誤解を招くような行動は、慎んでいただきませんと……」


 学院長室に呼ばれ、学院長直々にかけられた言葉も、また彼女の心を傷つけた。


(音楽練習室で、逢瀬ですって?ロレン様と何をしていると思っていらっしゃるの?意見交換や音合わせですけど?それとも、あんなことやこんなことをしているとでも?)


 ロザリンドは、王子とあんなことやこんなことをしている自分を想像して頬を赤らめた。


 あんなことやこんなこと……。


 頬を寄せて楽譜をのぞきこんだり甘えるように王子の肩に頭を預けたり、それから、それから……。


「デビュッタントさせていないから知らないかもしれないが――、ロレンツィオ王子殿下は、我が敬愛するフェリクス・ナルスタス国王の第一子。次期国王の座に一番近いお方だ。ご婚約者もいらっしゃる。お相手は、我が国が誇る四大公爵家の一つ、バートン公爵家の令嬢で、全てを包み込むような柔らかい空気をもった品のあるお方だ。このお方なら……と納得している貴族は多い。公爵家と伯爵家、貴族社会に受け入れられたご令嬢と社交界デビューもしていない躾の行き届かない娘。間違いが起きたときに、非難されるのはどちらか。よく考えて行動しなさい」


「間違い」という言葉が胸に突き刺さる。

 学院長の前で顔を赤らめたのがいけなかったのだろうか?学院から連絡がいったのか、いつになく厳しい顔で告げる父。


「悪い噂を立てられたら、卒業後、音楽家としてやっていくのは難しい。進路を変えて結婚するならそれでもいいが……それでいいのか?」とも。


 厳しいながらも思いやりにあふれたその言葉。ロザリンドは、心を決めざるを得なかった。


 ところが、出演辞退の意を王子に告げ、理由を問い質されて涙ながらに「婚約者がいらっしゃるのに、ロレン様と音楽練習室にこもるのは、未婚女性としてはしたないというようなことを言われて……」と打ち明けたら、しばし考え込んでいた王子が、「沙汰を待て」と言って帰城した次の日には、許可がおりて。

 音楽練習室の扉に鍵をかけない、扉の前に複数の見張りを立たせる、という条件の下に、放課後、二人きりで練習できることになった。

 ただ、王子がどんな手を使ったのか――ロザリンドには知る由もないが――、そのことが新たな火種となったことは、世事に疎いロザリンドにも分かった。敵意に満ちた視線と無言の圧を常に感じるようになったから。

 しかし、そのことを王子の耳に入れることは、はばかられた。何か仕掛けられたわけではなかったから……。ただ、心がざわついて落ち着かないことは確かだった。


 彼女には、音楽家として成功したい気持ちがある。

 15歳で、この王立アルベルト芸術学院音楽科に進んだのも、17歳という結婚適齢期にありながら婚約者がいないのも、そのためだ。家族も、後押ししてくれている。

 だからこそ、ロレンツィオ王子が与えてくれたこのチャンスをものにしたい。


 そのためにすべきことは……。


 周囲の視線、ロレンツィオ王子の婚約者のこと。

 気になることは多々あるけれど、自分の夢をかなえるために手に入れなければならないのは、芸術発表会での成功。

 何をもって成功というのかは人それぞれだけれど、ロザリンドが目指しているのは、王子と練り上げた既存曲の新しい解釈と世界観を舞台で表現し、聴衆にスタンディングオベーションで迎えてもらうこと。

 そのために、本番でミスしないよう、指に、体に、一音一音をしみこませなければならない。

 そのために必要なのは……、練習。

 それ以外には何もない。


 ロザリンドの心は定まった。

 そして、連日、王子との音合わせを終え、迎えの馬車で自邸に帰ってからも、きらびやかな調度品で飾られた客間の象嵌が施された優美なピアノに向かい、ただ無心に音を奏で続けた。

 そうすることが、唯一、揺れる心を静める方法でもあったのだ。



 二人が演奏している曲は、王都で若者に人気の冒険活劇の挿入曲である。

 勇者が魔王に立ち向かうシーンで使われる勇壮かつ優美なオーケストラ用の編成曲だが、二人で話し合い、「人間関係に疲れた若者が森の精に癒やされる」という解釈で、バイオリンとピアノの二重奏用に編曲したもの。

 それぞれが、楽譜を作り、それぞれの解釈をすりあわせて一つにまとめるところから始めた。


 初めての音合わせで、王子は、「猛々しいバイオリンの調べがピアノの音と絡むことにより昇華され、きらめきながら天高く昇っていく様を表現したい」と熱く語った。

 そのような感性を持ち合わせていると思っていなかったロザリンドが尊敬のこもったまなざしで見つめると、ほんのり頬を赤らめ、「荒んだ心が森の精の優しさに包まれて静まり、ふと我に返って見渡せば、そこは緑豊かな森の中で、見上げた梢に茂る葉の一葉一葉が、日の光を浴びてキラキラ輝き揺れている、その情景に若者は感動し、今世を生き抜く糧とするのだ」とも言った。


「キラキラですか……。では、これはどうでしょう?」


 王子の感性を表現すべく、ロザリンドは、鍵盤の上で指を素早く動かし、音を奏でる。高く澄んだ音が、チロチロチロ……と鳴る。それは、硬質グラスを指ではじいた時の音にも似ている。王子の緑色の瞳が見開かれた。


「こんなこともできますよ」


 今度は、揃えた指の背を鍵盤の上で滑らせる。低い音から高い音、そしてその逆も。シャララーンと、何かこの世のものでない美しいものが登場する前触れのような音がした。


「そんなこともできるのか」


 王子の瞳に熱が帯び、宝石のように輝く。ロザリンドのテクニックに、心をつかまれたようだった。


「爪を傷めるので、あまり披露できませんが」


 ロザリンドは、小さく笑って答える。王子は、ロザリンドの胸中を推し量るように視線を落とし「ああ、そうか、そうだな。そこまでは……」と口の中でつぶやき、「でも、アクションとしては格好いいな」と、ぱっと顔を上げロザリンドの瞳をのぞき込んで言ってのけた。


(ふふ、これが王子様の同意の求め方ね)


 ロザリンドは、心の中で笑うと「では、この場面では、手だけオーバーに動かしましょう」と答える。


「いいね。これは、何という技だ?」

「グリッサンドです」

「では、ここはエアーグリッサンドで。その前の、ピロピローン……は?」


 王子は、指を動かし、矢継ぎ早に聴いてくる。ロザリンドとしても、自分のテクニックに興味を持たれるのは嬉しい。


「トリルといいます」

「可愛い名前だね」


 ロザリンドが、クスッと笑う。王子の表情が、ぱあっと明るくなった。


「トリルは欲しいな。こことここ」

「承知しました」


 ロザリンドは、楽譜に印をつけていく。

 発想豊かな王子と曲を作り上げていく作業は楽しい。 

 場を支配するための動作も考え、オーバーに実践しては、笑い合う。

 二人きりの時間は、あっという間に過ぎ、終わりを告げた。


 発表会は、きっといいものになるだろう。


 そんな確信めいた予感がする。ロザリンドの胸に高揚感が湧き上がる。


 だが、その日が近づいてくると今度は気持ちが沈んでいき、ロザリンドの胸に一抹の寂しさが宿るようになった。

 そして、この時間が愛おしい。ずっと続けばいいのに――。

 いつしかそんなことを考えるようになっていた。

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