第2話 さざめき
ゴールデンウィーク前の金曜の夜。
病院の近くの居酒屋を貸切って行われた新人歓迎会は、いつもは目にすることができないようなリラックスした表情のメンバーであふれている。
美月は、宴会場の隅で、すでに酔いの回った部長の高泉の隣に座り、ぼんやりとその場を眺めていた。
「朝倉先生、こっちこっち」
看護師や事務員に人気の高い朝倉は、あちこちで声をかけられ、すでにだいぶお酒を飲んでいるようで、少し足取りがおぼつかない。
(それでもニコニコとして愛想をたやさないのが、彼らしいな)
美月はふとそう思った自分に苦笑した。
(今日は私もだいぶ、飲み過ぎてしまっているかもしれない…)
「佐倉先生はさ、随分仕事熱心だけど、40過ぎているんだろ?結婚とか考えないの?」
「部長、それは今の時代はコンプライアンス違反ですよ」
飲み会で必ず一度はされる質問を軽くいなして、美月はそっと目を閉じた。その途端、苦い過去の記憶が脳裏にフラッシュバックする。
(私は、もう恋なんてしないの、あんな苦しい思いをするくらいなら、仕事が恋人でいるほうがいい。少なくとも”実力”は私を裏切らないから)
「佐倉先生って、普段は冷静でつけ入るスキもない感じですけど、今日は少し柔らかくて、なんか、いいですね」
さっきまで遠くで年配の看護師達に囲まれていた朝倉が、いつの間にか隣に座り込んできて、美月の耳元でそっとささやいた。
「朝倉先生、だいぶ酔ってるわね。大丈夫?」
「ちょっとだけ。でも、今の言葉は本心です」
いたずらっぽく笑って、もといた席に戻る彼を、美月は複雑な想いで見送った。
(やめて……7歳も年上の女性をからかうなんて、最低。もう、本当に恋なんて、こりごりなんだから)
ほんの一瞬、胸の奥がざわついたが、それをかき消すように、目の前の日本酒の残りを一気にあおった。隣の席の高泉はすでに酔いつぶれて居眠りをしている。
(良かった、聞かれたら、また、変な噂を流されるところだったわ)
そのあと、程なくして会はお開きになった。気がつくと、目の前のテーブルに朝倉が突っ伏して眠っている。
(お酒、弱いのならほどほどにすればいいのに)
解散の声に目を覚ましてその様子を目にした部長が、悪びれもせず、美月に向かって手を合わせて、いつものように甘えるような声で言った。
「美月先生、あとはよろしくね。俺、明日当直だから」
「わかりました、部長。安心してお任せください」
(…めんどくさいことは、いつも私に押し付けて。頼みごとをするときだけ、名前で呼ぶの、やめてくれない)
明日からゴールデンウィークということもあって、気が付くと、さっきまで一緒にいた後輩達はすでに帰路についており、まわりには誰もいなかった。とりあえず、タクシーで彼の自宅まで送ろうとしたが、肩を揺さぶって呼びかけても、彼は目を閉じたまま返事をしない。
(大丈夫、呼吸はしているし、脈も速くない)
どうやら酔いが回って眠ってしまっているだけのようだ。ここで救急車を呼んで、急性アルコール中毒という名目で勤務先の救急外来に搬送することもできるが、限られた医療資源の問題をいつも議論している立場として、それもどうかと考えあぐねているうちに、彼がふと目を覚ました。
「すみません、佐倉先生。僕、意識がもうろうとして」
「家は、どこなの?」
「ちょっと、まだ引っ越してきたばかりで、名刺もないし、思い出せないです。本当にすみません」
当初の予定通りタクシーで自宅に送り届けてしまおうとも考えたが、酔いがさめてきて青白くなった顔と、家の場所を訪ねても返答できない様子をみて、このまま一人にしておくのも心配だという考えが、美月を優柔不断にさせた。苦渋の表情を浮かべつつ、美月は朝倉に提案した。
「仕方ないわね。家もわからないし、顔色も悪いから、うちで少し休んでいく?」
彼が、拝むように手を合わせてうなずくのを見て、美月はため息をつきながら、彼をタクシーに押し込んだ。コンプライアンスという言葉がふっと頭をよぎったが、目の前の困っている人を見捨てて帰ることはできない。しょうがない、そういう性分なのだ。
車内で、朝倉は眠ったまま、美月の肩に寄りかかっていた。
そのぬくもりが、なぜか遠い記憶を呼び起こす。
「……ほんとに、年上泣かせね」
そうつぶやいた美月の頬も、ほんの少しだけ赤らんでいた。
そして、美月も目を閉じた。
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