虹の花嫁
ついさっきまで乱気流の中にいたはずだが。
南国でハンモックに揺られている、そんな気分だった。
「起きてください! そろそろ降りますよ」
ユキの声が唐突に青い空を弾いた。
意外に慣れるものらしい。俺はすっかり微睡の中にいた。
叫び疲れて寝てしまったのだろうか?
手はまだしっかりと繋がれているままだった。
「時雨の峡谷……もとい、第二シンクタンクです」
その案内と共に、俺は下を見る。
草原しかなかったところに、いくつもの崖穴が開き、土塊が浮いている。
何者かが誘うように、底までの暗闇を光沢が照らしている。
それよりも圧倒的な存在感を放っていたのは、そうした奈落に囲まれた建物。
「ピラミッド?」
金塊は頂点に被さっていなかった。が、石灰を剥ぎ取られる前の、真っ白な四角錐だった。
少し違うのは、多少の窓がついていることだろうか。
「建物自体が
自分の記憶を総動員してユキの言葉を解釈する。
要するに、不用意に地殻変動が起きたりしない、ということだろうか。
それにしては、土塊が浮いたり奈落があったり、あからさまに
「それで? クレオパトラでもいるのか?」
「彼女なんかより、よっぽど綺麗だと思いますよ」
パンドラの箱の件といい、どうして通じるんだ?
ランカの言っていたことが思い起こされる。
俺が元いた世界と、オイクメネは無関係ではないのは明らかだ。
この謎はいつになったら解決されるだろうか。
「ただ、やっぱり怖いのだけは勘弁ですね」
「そんなに言うほどなのか?」
俺の問いかけに、ハルが横から口を挟む。
「おそらく、無礼を働く暇もない」
「……どういうことだ?」
「ただ一言、刺されて、終わり」
ハルは毅然とした目をしているが、その実彼女もまた、怯えているようだった。
それでも会わないといけない程の理由があるんだ。
ここで……討伐のためのヒントを何としても見つけ出さなくてはならない。
「さあ、着きましたよ」
ユキが指し示す先に、平たい着陸用の台地があった。
荷物は先に到着しており、ご丁寧に並べられていた。しかし誰の気配もしなかった。
§
「連絡入れてなかったのか? 出迎えぐらいあってもいいだろ?」
「ここは結構カツカツのシフトで動いているんです。客人をわざわざ出迎える暇はないです」
「やけに詳しいんだな」
「元々ここで働いてましたから」
雑談をしながらエントランスの方に向かっていく。そこら中穴だらけだ。
柵はついているが、ちょっと足を踏み外したりすれば、奈落に真っ逆さまだろう。
その中でひしめく、やたらと気持ちの悪い生き物に食い荒らされ……
想像するだけで吐き気がする。
「……い」
どこかで声が気がして、足を止めてしまう。
「どうしましたか?」
振り返ったユキも気にせず、俺は音の正体を探り始める。
真っ先に奈落の方に耳を傾け、集中する。
「誰かいるの? もしかして」
ハルはすぐさま荷物を置いて俺の横に駆けつける。
そして鞄を開き、何かを探し始めた。
「縄の代わりになるもの、ないですか?」
ユキにハルが問いかける。あの青い炎の鎖があれば何とかなりそうだ。
しかし、ユキも鞄から探し始めてしまった。
今、あの力が使えないというのは、本当だったようだ。
「ありました。練習用の鎖」
結局鎖だった。
ユキはそれを放り投げ、ハルがそれを手繰り寄せる。
そして奈落の方へと垂らしていく。
「まさか、俺が行けと?」
「あなた以外に誰がいるの? 絶対ユキ様は向かわせないから」
なんでだよ。
と文句を垂れる前に、俺はその鎖を掴んでいた。
そして躊躇いなく、壁伝いに降りていく。
残る二人が鎖を離さないことを祈る。
「待ってろよー!」
俺は奈落の底にいる遭難者に呼びかけた。
いくつも声が跳ね返り、反響する。
穴を下っていく度に温度が低くなる。
そして暗闇の深さも増していく。
「今、助け……て」
俺の声が途切れたことで、ハルが不安な声を出した。
「どうしたの!?」
「いや、何でもない! でも引き上げてくれ」
俺の声が途切れたのは、あまりに自分が滑稽に見えたからだ。
というかこのシチュエーションになって、笑わない奴がいるのか?
必死こいて、命綱もなしで鎖でラペリングしている俺の横で。
「ご苦労なこと」
エレベーターリフトのようなものを使って、悠々と上がっている奴がいるんだから。
「乗る?」
「いえ、結構です」
せめて三人の力で上がらないと。
あまりにも愚かだと思った。
§
「はあ……とんでもない思い違いだったわね」
俺をようやくの思いで引き上げたハルは、その場に座り込んで、肩で息を吐いていた。
その横で、同じく頑張っていたであろうユキは、なぜか正座をしている。
奈落から上がってきた、この謎の女性に向けて。
「どうして降りてきたの?」
金色の髪は、肩にかかるには短すぎて、目元を覆うには長かった。特に右目は、完全に髪の中に隠れていた。
ウグイス色の、上下一体のオーバーオール。その上半身がはだけて、ノースリーブのブラウスと、緑のネクタイが露わになっている。
「助けを求める声が聞こえたから」
俺はそう答えるしかなかった。
ちょうど穴に落ちてしまう想像をしていたところだから、救難者だとばかり思ってしまった。
であれば、さっきは何を言おうとしていたのだろう?
「あれは『待ちなさい』と言ったの」
なんと、声の主は俺よりも背が高い。180cmは超えているだろう。
全体的にアクセサリーで塗れている。三角形のイヤリング、ひねりのないブレスレット、薔薇の髪飾り。
それら全てが、硝子で出来ている。
さらには左腕に、はっきりと刺青が刻まれている。
黒い、何かの模様が。
「……なるほど」
「……」
ずっと無表情で何を考えているのか分からない。
おかげで俺はふと笑ってしまう。気にしないようにしていたのに。
「何かおかしい?」
「いや、何も」
おかしいよ。
彼女の服にはサスペンダーが備わっているが、凶悪な胸の大きさのせいで、腹部との隙間が尋常でないことになっている。
ブラウスの丈も、胸元までしかなく、しなやかな腹部と臍が曝け出されている。
ユキやハルとはうってかわって、ずいぶんと大胆なファッションだ。
「君が、立花リクト君?」
「そう。よろしく」
彼女はその言葉に頷いて、握手もせず、また動かなくなった。
「......えっと、あなたの名前は?」
「
「『虹の花嫁』としか」
「ああ」
ユキの言っていたことが分かった。
とっつきづらい!
ずっとぼーっとしている感じで、箸にも棒にもかからない曖昧な態度を続けている。
無表情かつ無口。考えも読み取れない......というか、何も考えていないんじゃないか?
寝起きのテンションで一日中過ごしているんじゃないのか。
「リクト君は、どんな叙述が使えるの」
「あー。そもそも叙述が何なのか分からないんだ。世間知らずだよなー。ははは」
「......ふーん」
エメラルドのような輝きを持った瞳が見え隠れする。
薄紅色の唇とのコントラストや高い鼻筋、深い眼窩。
それらがバランスよく均整を保った、美しい顔。
「じゃあ今まで、どうやって生き延びてきたの」
その言葉で俺は詰まった。
2回戦闘になったが、その2回とも結局死んでいる。生き延びた試しがない。
でも、生き延びること自体にあまり価値がない。
「まずは生きることに集中してみて」
そうは言っても。
自分が死ぬこと以上に大事なことが多かった。
これからも、この二人といる限りそれは続くだろう。
「じゃなきゃ、君が君である意味がなくなってしまうから」
ここで、一つ気づけなかったことがあった。
ミナミはだんだんとこちらににじり寄り、俺は自然と距離を取るため後ろに下がっていた。
それが何を意味するか。
「危ない!」
ハルが立ち上がるには遅かった。
ミナミはいきなり手を突き出し、俺を押し出す。
俺が倒れる先は、地面じゃない。
柵の外れた崖穴だった。
「うあああああ!!」
俺の悲鳴が穴に響き渡っても。
ミナミは変わらず、無表情を貫いていた。
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